クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

死を越える希望

 先日、『宣教』を読みました。これは全国連合長老会という教会グループが発行している機関誌です。一人の牧師の文章に目が留まりました。その人は子どもの頃病気になり、死と隣り合わせの生活が続き、死の恐怖に捕らわれました。やがて教会に行き、この捕らわれから解放されたと書かれていて、共感しました。

 死の恐怖に捕らわれ、キリスト信仰によってこの恐れから解放され、牧師になったという人を何人も知っています。私自身もそうですが。死の恐怖に捕らわれると心が傷つきます。生まれて来たことを感謝できなくなります。でもそのおかげで信仰に導かれたのですから、それは感謝です。感謝できない心と感謝する心があり複雑です。

 歳をとり、死のイメージが若い頃と変わりました。死というのは眠りに就くというイメージを持つようになりました。永眠という言葉があります。眠りに入り、目覚めないことを意味しています。しかし聖書は死について別な理解を持ちます。

創世記 3:19
お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」

 これはアダムとエバが禁じられた木の実を食べた罪に対して神が語った言葉です。塵に返る、とは人間としての存在がなくなること、つまり死を意味します。

ローマ 6:23
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

 死は罪を犯した結果、自分が引き受けるものとあります。罪に対する罰が死ということができます。

 人は死んで眠りに入ります。意識がなくなります。永眠という言葉があるように、目覚めることのない眠りに入ったように見えます。ここまでは、この世界にいて確認できます。その後眠りから覚めるのか否か、それは分かりません。クリスチャンは聖書から、自分が復活することを教えられ、ここに希望を見いだします。

 最近、インスタコードという電子楽器を伴奏にしてよく賛美しているうたがあります。

「いつかは知らねど(新聖歌465)」

いつかは知らねど 主イエスの再び
この世に来たもう 日ぞ待たるる
その時聖徒は 死よりよみがえり
われらも栄えの姿とならん

 栄えの姿とは、真の人であったキリストの似姿のことです。キリストの似姿に変えられて神の国に迎えられます。

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 

 この聖書の言葉は本当なのかどうか。本当と信じられるかどうか。それが問題です。そこで私は、聖書の言葉によって歩み、聖書の言葉が真理であるかどうか、確かめるために信仰に歩んだという面があります。今、聖書の言葉はほぼ真理であると思っています。

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