使徒パウロはコリントの信徒への手紙でも教会がキリストの体であると宣べています。この箇所でも、教会とは何か、正面から教会を論じようとして書いているのではありません。ついでに教会のことが語られているように思えます。12章では4節~11節で霊の賜物について語り、27節から章の終わりまで神によって立てられ働きを担う人のいることが書かれています。二つの箇所に挟まれる形で、「体」についてパウロは語ります。
コリント一 12:12
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
教会に集う一人ひとりのキリスト者はキリストの体の部分であり、部分が集まってキリストの体である教会をつくっています。
コリント一 12:18
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
神は救いに導いたキリスト者を教会に連ならせ、キリストに結び合わせ、信仰者としての歩みを導こうとされます。
体のどの部分も「自分は体の部分ではない」とは言えず、また他の部分について「不必要だ」とは言えません。さらに見苦しい部分があっても見栄えのよいものにしようとし、見劣りのする部分があってもそれを引き立てようとします。一つの部分が苦しめばすべての部分も共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶとあります。
世の中にはいろいろな組織があります。組織には沢山のそれを構成する部分があります。その意味で、教会はこの世の組織体と似ています。しかし違う点もあります。どの部分も必要であることを互いに認め合います。ある部分の苦しみを共に苦しみ、ある部分のすぐれた点を共に喜びます。この世の組織においては、弱い部分は必要ないと切り捨てることがありますし、ある部分が尊ばれれば、他の部分が嫉妬したりすることもあります。体である教会は、愛によってすべての部分が結ばれているという特徴があり、そのことが最も大切なこととなります。この世の組織は、目標を優先します。
教会には、いろいろな霊の賜物が信仰者に与えられます。また色々な働きを担う人がいます。賜物の違いに優劣はなく、働きの違いに優劣はなく、教会という存在に必要な大切なものであることを認め合うために、パウロは「体」について論じています。
現実の教会は、パウロが書くような教会になっているとは限りません。コリント教会では分派があり、誰を指導者とするかで、混乱が生じていました。
コリント一 1:10~13
さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。はっきり言うと、あなたがたがそれぞれ、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」「わたしはキリストに」と言い合っていることである。キリストは、いくつにも分けられたのか。
現実の教会は、キリストの体として信仰者たちが愛によって結ばれているということができない現実があります。それは当然のことです。信仰者といえども罪を犯すからです。だから愛によって結ばれた教会を形成していくことが大切な課題となります。
