クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ありえないことを信じるキリスト者(9)信仰による義

 信仰によって義とされる、これは大切な教理、教えです。

ローマ 3:21~24
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 イエス・キリストを信じる人に神の義が与えられます。言い換えるとその人は神の前に義とされます。神の前に正しい人とされます。キリスト者は神の前に正しい人なのです。

使徒言行録 2:38~39
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」。

 この使徒言行録は、洗礼を受けた人は罪が赦されることを伝えています。上に引用したロマ書3章を合わせれば、イエス・キリストを信じ、洗礼を受けたキリスト者は、それまでに犯してきた罪を赦され、神の前に義と認められたことになります。

 キリスト者である私たちは神の前に正しい人間とされているとロマ書3章は語ります。信仰によって義とされる、これは宗教改革者ルターが発見した真理であるとされ、プロテスタント信仰の第一の教理とされてきました。信仰によって義とされる、信仰義認。プロテスタント信仰の基本教理です。

 どうでしょうか。神の前に自分は正しい者である、素直に信じることができるでしょうか。それとも、自分はキリスト者ですが、罪を犯します。そんな自分が神の前に正しい者であるなんて、ありえないと思われるでしょうか。

 私は牧師を隠退した後、説教奉仕の依頼を受け、招かれた教会の礼拝で説教をしてきました。礼拝の中で祈りがささげられます。その祈りの中で、「一週の歩みの中で罪を犯しましたが、今罪赦され、御前に出ることを許されたこと感謝です」という祈りがどの教会でも祈られます。しかし「罪赦され、なお義としていただいていることを感謝します」という祈りは聞いたことがありません。こういう祈りを聞いていると、イエス・キリストの贖いにより罪が赦されていることは信じていることは伝わってきますが、義とされていることは信じていないのではないかと思わされます。

 キリスト者は罪を犯しても義とされているのか、どうなのでしょうか。罪を犯した場合は悔い改め神の赦しを求めることは大切です。罪を犯しっぱなしというのはよくないです。キリスト者は罪を犯しますが、それでも義とされているなんてありえないのでしょうか。義とされているなんてことは考えないで、罪の赦しを感謝すればそれでよいのでは、と考える人もいるかもしれません。

 礼拝で祈られる祈りで気になるのが、「私たちは罪人です」という表現が祈りの中に出てくることがあります。たとえば、「私たちは罪人であります。でもあなたは私たちの罪を赦してくださり、礼拝に招かれていることを感謝します」と祈られることがあります。

 私はツッコミを入れたくなります。「あなたは罪人が神の国に入ることが許されると思いますか」と。「私たちは義とされているから、神の国に入ることができるのではないですか」と。

 キリスト者は罪を犯すけど、神の前に正しい人である、ありえる?ありえない?

タンポポ 馬見丘陵公園にて