クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ありえないことを信じるキリスト者(10)信仰による義(続)

 信仰によって義とされた人が罪を犯したとするなら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。それでもなお義とされ続けるのでしょうか。

 ウェストミンスタ信仰基準には、このように書かれています。

神は、義とされる者たちの罪を赦しつづけられる。それで彼らは義とされた状態から決して落ちることはできないのではあるが、それでも彼らは、自分の罪によって、神の父としての不興をこうむり、彼らが自らへりくだって、自分の罪を告白し、ゆるしを乞い、自分の信仰と悔い改めをもう一度新しくするまでは、神のみ顔の光をとり戻せないこともあり得る。(第11章義認について)

 ここにはキリスト者が罪を犯しても義とされたことは取り消されないとあります。ただし、犯した罪に対して罪を告白し、ゆるしを求め、悔い改めによって信仰を新しくしなければ、神のみ顔の光をとり戻せないことがありうるとしています。

 私たちは神の恵みによって義とされているのであり、自分の行動の結果として義とされたのではないので、自分の行動の結果として義が取り消されることがないことが分かります。罪を犯したなら、罪を告白し、悔い改め、ゆるしを求めることは神に対して誠実な、信仰的な対応であり、これを怠るなら、神が私たちに対して恵み深く接してくれるかどうかはわからないとします。誠実な対応をする限り、義とされた祝福の中を歩み続けることができます。

 もし、罪を犯したら義とされたことが取り消されるとしたら、キリスト者はどうなるのでしょうか。その罪が責められるものとなり、神の怒りを受ける者となります。今度はどうしたら罪の赦しを受けることができるのでしょうか。今度はキリストの復活を信じたら義とされるのでしょうか。それで罪を犯したら、今度は何を信じたらよいのでしょうか。罪を犯したら義とされたことが取り消されるなら、私たちには救いがないことになります。それは神の救いの道ではありません。

 旧約聖書の律法によれば、罪を犯した人が罪の赦しを受けるには、自らいけにえをささげる必要がありました。しかし罪の赦しのために、神の方から、いけにえを献げました。それがイエスであり、神の御子です。罪を赦す側がいけにえをさし出すなんて理屈に合いませんが、このことにより、罪の赦しは恵みによって与えられることとなります。神の前に義とされることが恵みとして与えられることになります。

 神はなぜ、このような救いの道を備えられたのでしょうか。罪を犯してもなおキリスト者は義とされ続けるのでしょうか。私は下記の聖句と関連づけて考えています。

エフェソ 1:4~6
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

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