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隠退牧師 holala によるブログ

ありえないことを信じるキリスト者(11)信仰による義(続)

 神はイエス・キリストを信じる人を義とします。つまり神の前に正しい者と認めたのです。すると、キリスト者が罪を犯したら、義とされたことは取り消されるのかとの疑問が生じます。義とされたことは取り消されないと私は考えます。神はイエス・キリストを信じる人を義としたのなら、取り消しません。カルヴァンの流れを汲む改革派の教会が作成したウェストミンスタ信仰基準にも取り消されないと書いてあることは前回紹介しました。

 私が取り消されないと考えた理由は、イエス・キリストを信じた人に対して神は計画を持っておられるからです。

エフェソ 1:4~6
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

 神さまには計画がありました。イエス・キリストを信じる人を「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしよう」との計画がありました。そのためにキリスト者は選ばれたのです。自分の決断で自分は信仰者になったという人もいるかもしれませんが、イエス・キリストを信じることができたのは、聖霊の導きがあったからであり、神の導きの中で、信仰者になる決断を私たちはしています。

 また、イエス・キリストを信じる者を神の子としてくださる、これも神の計画でした。キリスト者は義とされ、神の子とされ、聖なる者、汚れのない者になることが神の計画です。キリスト者は自分の努力では、聖なる者、罪を犯さない汚れのない者にはなれません。

 そのことは旧約聖書が教えています。エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民は、奴隷状態から救われて神の民となりました。彼らには十戒という戒めが与えられました。これを守れば、祝福された歩みをすることができるのですが、イスラエルの民は守ることができませんでした。「守りなさい」と教えても「守ることができない」のが人間なのです。

 そこで神が選んだ人間の救いの道は、贖いの死を遂げたイエス・キリストを信じる人を義とすることでした。正しい者と認めることでした。それはキリスト者が神との交わりに生きるためでした。神が御自分との交わりを許すのは、神の前に正しい人です。キリスト者はイエス・キリストを信じ、神の前に義とされ、神との交わりに生きることが許されました。神はキリスト者を神の子とし、ご自身は父なる神となり、父と子の交わりにキリスト者を迎え入れるのです。

 結婚、それは二人の者が夫婦として交わりを持ち、共に生きていくことを意味します。大切なことは、自分のパートナーを尊敬し、その心を大切にし、その人格を大切にすることです。言い換えると相手を愛するのです。相手に対して不誠実なことをすれば、夫婦の交わりにひびが入り、やがて壊れてしまうかもしれません。

 キリスト者は神との交わりに迎えられ、神の御心を大切にして歩む努力をします。つまり神を愛するのです。キリスト者は神を愛するように、神との交わりに招かれているのです。その前提として、神がまず、私たち人間を愛されたのです。神は御子を十字架の死に渡し、贖いのいけにえとしてさし出しました。

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 キリスト者が、義とされたこと、神の子とされたこと、交わりへと招かれていること、これらはすべて神の恵みです。キリスト者はこの恵みに応答して、義とされた者として生き、神の子として歩み、神との交わりに生きることを志します。キリスト者が神との交わりに生きる中で、聖なる者、汚れのない者とされていきます。

 これ以外にキリスト者が聖なる者になる道はありません。ですから、神はキリスト者が罪を犯しても義としたことを取り消しません。キリスト者が神との交わりに生きることを神は信頼し、期待しているのです。

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