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隠退牧師 holala によるブログ

人間の思いを超える神の業

主イエスの復活について説教をする機会を与えられました。感謝でした。

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聖書 ルカ福音書 24章1~12節
説教 人間の思いを超える神の業
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1.導入

→今日は主イエスの復活を信じる意義、恵みについて
聖書に耳を傾けたいと思います。

→婦人たちが朝早く、香料をもってイエスが葬られた墓に行きました。
遺体に香料を塗るのは、遺体を葬る時の一つの手続きのようです。
墓に来てみると石が墓のわきに転がしてありました。
当時の墓は、横穴を掘り、その奥に遺体を葬ったようです。
遺体を葬った後、入り口のところに大きな石でふたをします。
簡単には中に入ることはできません。

→婦人たちが墓に来てみると石が転がっていました。
不思議に思って中に入ってみると、
あるはずの主イエスの遺体が見当たりません。
何が起きたのか、婦人たちは戸惑っています。
輝く衣を着た二人の人が突然現れました。
神の使い、天使が現れたのです。
婦人たちは驚き、恐れて地にひれ伏しました。
すると二人の天使が婦人たちに言います。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。
あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」。
復活? 何それ?
婦人たちは戸惑ったと思いますがすぐに二人の天使は言います。

「まだガリラヤにおられたころ、
お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、
三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。

→婦人たちはイエスの言葉を思い出し、
イエスが復活したことを信じたと思われます。
婦人たちは弟子たちのもとに帰ります。
そして一部始終を知らせました。
しかし使徒たちは、つまりイエスの弟子たちは、
婦人たちの話がたわ言、つまり愚かな話しに思え、信じようとしませんでした。
婦人たちはイエスが、以前、御自分が十字架で死に復活することを
弟子たちに三度話されたことを、弟子たちに話したと思います。
でも死者が復活するなんてありえない、ありえない。
弟子たちは「そんなこと、ありえない」との思いのために、
婦人たちを信用せず、イエスの復活を信じませんでした。

→聖書を読む私たちだって、イエスの復活の物語に戸惑います。
死んだ人が生き返るなんて、見たことも聞いたこともありません。
そんな話しを信じませんか、と言われても戸惑うばかりです。
イエスの復活を弟子たちは、ありえないことと判断し、
信じようとしませんでした。

2.神のみ業は人間の思いを越える

→ここで一つ皆さんにお伝えしたいことがあります。
それは、神さまの御業は人間の思いを越えたものであるということです。
もう一度繰り返します。
神さまの御業は人間の思いを越えたものであるということです。
預言者イザヤはこう語ります。

イザヤ 55:9
天が地を高く超えているように/わたしの道は、あなたたちの道を/
わたしの思いは/あなたたちの思いを、高く超えている。

→神さまの思いは人間の思いを超えており、
神さまの御業も、人間の思いを遙かに超えたものであるというのです。
つまりそんなことありえないと私たちが思うことを
神さまは考え、行われるのです。
人間を救おうとする神のやり方は人間の想像を超えているということです。
救い主が十字架で死に、3日目に復活するなんて
神による救いは、人間の思いをはるかに越えた出来事です。
聖書には、人間の思いを越えたことを
神さまがなさる出来事がいくつも書かれています。

→たとえば創世記12章に出てくるアブラハム。
彼は信仰の父と呼ばれています。

創世記 12:1~2
 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

→聖書を読む私たちは、神がアブラハムに語りかけたと理解します。
でもアブラハムは誰が自分に語りかけたのか、分からなかったと思います。
その声は彼に、あなたの子孫は大いなる国民になると約束しました。
しかしアブラハムが生きている間に、自分の子孫が大いなる国民になるのを見ることはできません。
人がその実現を見ることができないような約束をその声はしたのです。
その語られた言葉が持つ威厳に満ちた響きのゆえに、
アブラハムはその約束を信じました。
人間の思いを超える神の約束を信じたのです。

→数年が過ぎましたが、子は授かりません。
アブラハム夫婦は、子を授かる年齢を過ぎています。
神の約束はどうなるのか、とアブラハムが不安や疑いの気持を抱いていると
神が彼に声をかけます。

創世記 15:5
主は彼を外に連れ出して言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」。

→するとアブラハムは、どうしたでしょうか。

創世記 15:6
アブラムは主を信じた。

→アブラハムは今一度神の約束を信じたのです。
つまり自分の子孫が大いなる国民になることを信じたのです。
自分たちは年とった夫婦であり、子がいないのに、信じたのです。
驚きです。

→時は流れ、アブラハムは99歳になりました。
神が彼に最初に声をかけてから24年過ぎました。
まだ子を授かっていません。
神はアブラハムに言います。
「わたしは全能の神である」(創世記17章)

創世記 17:16
「わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう」。

→彼女というのは、アブラハムの妻サラです。
彼女はこの時、89歳です。
そして翌年、彼女はアブラハムの子を産みます。
アブラハムは100歳の時、90歳の妻により、我が子を授かるのです。
この話し信じられますか。
このようなこと、ありえないです。
しかし聖書はありえないことを書いているのです。
そして聖書は、アブラハムは子を授かったと書きます。

→大事なことは、神はアブラハムに、あなたの子孫は大いなる国民になると約束したことです。
アブラハムは、この神の約束が実現するかどうか確かめることはできません。
でも授かるはずがない老夫婦に子が授かり、
アブラハムは、神の約束の実現を心から信じました。
そのことが分かる出来事があります。
彼の子イサクがおそらく5,6才の頃、
神はアブラハムに語りかけます。

創世記 22:2
神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。

→神はたった独りの子、イサクを焼き尽くす献げ物として献げなさいと命じました。
献げ物として献げる、それは見方を変えれば息子のイサクを殺すということです。
イサクが死んだらどうなるのでしょうか。
アブラハムには子がいなくなります。
そしたら神の約束はどうなるのでしょうか。
アブラハムは、たといイサクが死んでも、
神は子孫を大いなる国民にするという約束を実現されると信じたのです。
彼は祭壇を築き、そこにイサクを乗せ、イサクを殺そうとした瞬間、
神の使いが彼に語りかけます。
「その子に手を下すな。何もしてはならない。
あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」。

→このアブラハムの物語から分かることは、
神が約束したなら、それがどんなにありえないことに思えても、
神は実現なさるということです
そしてアブラハムは神の約束を信じたのです。
それ故彼は、信仰の父と呼ばれています。

→もう一つ聖書から、例を引きます。
それは出エジプトの出来事です。
イスラエルの民がエジプトの国で奴隷として苦しんでいました。
彼らが神に助けを求めると神は約束します。
イスラエルの民をエジプトの王から救い出し、
さらに自由に生きることのできる地へ導く、と。
出エジプトを読むと分かりますが、
神は人間の思いを越える奇跡
そんなことは起こるはずがないと思える奇跡を次々に行い、
イスラエルを救いました。
そしてご自分の約束を実現させました。

3.イエスの復活

→イエスの復活もまた同じです。
死者の復活なんてありえないように見えます。
しかしイエスの十字架の死と復活の出来事は預言されていたのです。
今日の聖書の続きの13節に、二人の弟子が、
エルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。
復活したイエスが彼らに近づきますが、彼らはイエスだと気づきません。
イエスが彼らに何の話をしているのかと聞きます。
すると二人の弟子たちは、婦人たちが「イエスは生きておられる」と話しました。
そのことを話し合っていましたと語ります。
この二人も婦人たちの言葉を信じていないのです。

ルカ 24:25~27
そこで、イエスは言われた。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

→この場合の聖書全体とは、旧約聖書のことです。
イエスの十字架の死と復活は、聖書に預言されているとイエスは説明したのです。
その預言が、今実現したのだと語るのです。
すると二人の弟子たちの心が燃えました。
うれしさ、喜びで心が熱くなったのです。

→イエスは、ご自分の死と復活について、弟子たちに三度語りました。
婦人たちに現れた二人の天使が、言います。

ルカ 24:6~8
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。
そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。

→イエスの死と復活は、イエスによっても予告されていました。
イエスは、十字架で死ぬことと、三日目に復活することを約束していたのです。
死者の復活は、人間の常識からすればありえません。
神の思いは人間の思いを遙かに超え、
神は人間の思いを越える御業を行われるお方です。

4.復活を信じることの意味

→イエスが復活したという出来事を本当のことと信じるだけでは、意味がありません。
イエスの復活が信じる者に何をもたらすのか、それを知り、それを信じることが大切です。
私たちがイエスの復活を信じることの意義を二つ紹介します。

→第一に、これは私たちの将来に関係しています。
つまり私たちも死んだ後、復活するということです。

コリント一
15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

→イエスの復活は初穂としての復活であると聖書は告げます。
初穂とは、その年最初の実りを指します。
稲は次々に実っていきます。
イエスの復活に続き、イエスを信じるキリスト者は復活するのです。
それ故、私たちは、私たち自身の復活を信じます。
聖書が語るゆえに、信じるのです。
イエスの弟子たちは、イエスがご自身の復活を三度語っていたのに信じませんでした。
私たちは信仰者として、弟子たちの過ちを繰り返したくないです。
聖書が証しするゆえ、信じます。


→私の復活、それは私が死んだ後に実現します。
信仰の父と呼ばれるアブラハムは、
自分が死んだ後に実現する神の約束を信じました。
アブラハムの信仰に倣い、私たちも自分の死後の復活を信じます。

→第二にキリストの復活はキリスト者の現在に関わります。
これについては聖書を読むにとどめます。

ローマ 6:3~8
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、
その復活の姿にもあやかれるでしょう。
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
死んだ者は、罪から解放されています。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。

→キリストの十字架の死と復活は、キリスト者である私の死と復活であるというのです。
古い私が死んで、私は新しい私になるのです。
古い私の死、それは罪に支配された体が滅びるということ、
その結果、私たちが罪の奴隷にならないこと、私たちが罪から解放されていることを意味するというのです。
新しい私は、罪の奴隷ではなく、罪から解放されています。
どうですか。ありえない話しでしょうか。
イエス・キリストによる救いの御業として語っています。
人間の思いを超える神のみ業です。

→キリストの死と復活の意義について、すでに聖書に書かれています。
それがキリスト者であるわたしたちに実現するのです。
今度は、人間の思いを越える神の救いの御業を
私たちが信じる番です。
そしてここにキリストによる救いの恵みがあります。

ヘブル11:1
 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。