神の戒めは、信仰者を祝福するためにあります。それを守ること自体に祝福があります。守りたくなければ守らなくてもよいのです。でも守らなければ、その祝福を受け取ることができません。そして守らないことは、しばしば他者を傷つけることになります。「殺してはならない」の戒めを破れば、他者の命を奪うこととなります。
私が守りたくなければ守らなくていいと言ったのは、神の戒めを守る動機が大切であることを主張したいからです。言い換えると、神の戒めは守らなければならないから守るものではないということです。だから守りたくなければ守らなくていいと私は書きました。神は、神を信じる者が神の戒めを守ることを期待していることは確かです。
個別の神の戒めについて、信仰者は守りたくないと考えることがあります。そして神の戒めはむずかしいよね、守ることは無理よね、と人に同意を求めるような話し方をすることがあります。
エフェソ 4:32
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。
他者を赦すことに困難を覚える人がいます。神の御心は赦すことにあります。赦さないことは罪です。神の戒めを守りたくないと思う時、そこには罪があります。
かつて教会に「助けてください」と助けを求めて来た方がいました。話を聞いて、私は悩みました。行動を起こした時に直面する恐れのゆえに、行動を起こすことにためらいを感じました。行動を起こしたとして完全に助けることができるのか自問し、むずかしいだろうなと思いました。行動を起こしても失敗に終わる、そう思うと助けたいという気持ちが萎えました。行動を起こすなら失敗してはいけない、そんな思いが働きました。自分を愛するように隣人を愛する、むずかしいと思いました。悩んだ末、私は行動しました。神に信頼して行動しました。恐れを感じましたし、よい結果は得られませんでした。惨めな結果でした。でも助けを拒む罪は犯しませんでした。
大事なことは、神の戒めを守る動機です。信仰に生きるとは、神を愛して生きることです。神を愛して生きるなら、神の御心を大切にし尊重します。しかも神の戒めは私たちを祝福します。だから喜んで信仰者は守ります。
神を愛する以上に自分を愛するなら、神の戒めを守りたくないと思う時があり、結果として守らないでしょう。信仰者は神を愛する信仰者になるために罪との戦いがあります。神の戒めを守るか否か、それが信仰の現場です。この戦いは、神の助け、聖霊の導きにより勝利することができる戦いです。信仰者の心は、神を愛するように清められていきます。そして神の戒めを守り、祝福を受けて歩みます。
神の戒めの受けとめ方の結論(私の場合)
- 神の戒めは信仰者を祝福するためにあると受けとめる。
- 神を愛し、神の御心を尊重し、守りたいと考えて守る。
- 守らなければならないから守るという考えは捨てる。
- 神を愛する人になる、そこに信仰の成長があり、この成長を目指す。
- 守りたくないと思う時には、罪がある。罪と戦う。神に助けを求め、聖霊の導きを祈り求めて戦う。
エフェソ 1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
キリスト者は、この神を信じます。
