昨日、A教会で説教奉仕をしました。説教準備に苦しみましたが、導かれて説教を行うことができました。感謝です。

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聖書 ルカ福音書 9章10~17節
説教 神の国を語るイエス
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1.導入
→今日の聖書でイエスは「神の国について語られた」とあります。
どんなことを語られたのでしょうか。
皆さんは「神の国」について、どんなイメージを持っておられるでしょうか。
→10節で「弟子たちは帰ってきて」とあります。
9章の最初にイエスは12人の弟子たちを
神の国を宣べ伝え、病人を癒やすために派遣したのです。
3節ではパンも金も、下着は二枚持っていくなとイエスは命じました。
何日間の旅か分かりませんが、短期間の伝道旅行だったと思います。
弟子たちは、「神の国を宣べ伝え、病人を癒やすため」に遣わされました。
6節には、
ルカ 9:6
十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。
→今日の聖書10節は、この弟子たちがイエスの所に戻ってきて、報告をしたことを伝えています。
イエスは弟子たちを連れてベトサイダの町に行きました。
おそらく弟子たちに休息を取らせたかったのだと思います。
ところが群衆がイエスの後を追いかけて来ました。
イエスはこの人々を迎え神の国について語り、
治療の必要な人を癒やしたとあります。
イエスは「神の国について語り」とありますが、
私は、イエスが神の国についてどのようなことを語ったのかを
知りたいと思いました。
→イエスが弟子たちを派遣する時も、
9章2節、「神の国を宣べ伝える」ように命じました。
6節では、弟子たちは至るところで福音を告げ知らせ、病人を癒やしたとあります。
弟子たちは福音を語りましたが、福音をどのように語ったのか、
私は、知りたいと思いました。
4章で自分たちのもとから離れないでと懇願する群衆に対して
イエスは「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」と語り、
イエスはユダヤの諸会堂に行って宣教されたと書かれています。
ルカの福音書を読んでイエスの活動を繰り返して読むのですが、
神の国とはこういうものだ、福音とはこういうものだ、
と明確に語っている箇所はないように思います。
→使徒パウロはローマの信徒への手紙1章で、「私は福音を恥としない」と語ります。
続いて恥としない理由を語ります。
「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。
福音は信じる者に救いをもたらす神の力である、と明確に語っています。
→しかしルカ福音書では、イエスは神の国について、福音について、それがどういうものか明確に語っているようには思えません。
そもそも福音書とは、イエスの活動を伝え、イエスがメシア救い主であることを伝えようとしています。
そこでイエスの語った教え、病人のいやし、汚れた霊の追い出しなどの
イエスの働きを知る中で、
神の国とは何か、福音とは何か、聖書を読む私たちが悟ることが大切なのだと考えます。
イエスが語る神の国とは何か、それが今日のテーマです。
2.神の国とは
→ルカ福音書において、神の国とはこういうことだとイエスは明確には語ってないように思います。
ではどうしたらイエスが何を神の国としたのか、
福音書が語るイエスの働きを読み
理解するように努めるほかありません。
→今日の聖書11節で、イエスは「神の国について語り、
治療を必要としている人々をいやしておられた」とあります。
イエスのもとには病気のいやしを求める人たちが沢山集まっていたと思われます。
それはイエスが病人を癒やすという評判がユダヤ全土に広がっていたからです。
病人がイエスのもとに来るのに、家族や友人の助けもあったと思います。
イエスによっていやされた病人、付き添いの家族や友人にも喜びがあったと思います。
→今日の聖書の場面では、男性だけで5千人もの人がいたとあります。
大多数の人は遠くでイエスが病人を癒やしているのを見ることになります。
遠くから見るなら、強い印象を受けることは少ないのではないかと思います。
そこで他の箇所を参考に読んでみたいと思います。
→5章17節以降に中風の人の癒やしの出来事が書かれています
中風の人というのは脳溢血などで半身不随になった人のことです。。
ある家でイエスが教えていました。
そこに男たちが中風の人を床に乗せて運んできました。
イエスによるいやしを求めてのことです。
群衆が沢山いたので家の中に入ることができません。
そこで屋根に上って瓦をはがし、病人を床ごとつり降ろしました。
ルカ 5:20
イエスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
→「あなたの罪は赦された」と言うなんて自分を何者だと思っているのか。
神を冒とくしていると心の中で何人かの人々がイエスを批判しました。
そこのことを知ったイエスは、言います。
ルカ 5:23~24
『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、
どちらが易しいか。
人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。
そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、
床を担いで家に帰りなさい」と言われた。
→すると病人は立ち上がり、神を賛美しながら家に帰って行ったとあります。
さらにその場にいた人たちも、大変驚き、神を賛美し始めました。
そして恐れにうたれて、
「今日、驚くべきことを見た」と言ったとあります。
→皆さんも、この場面に自分がいたと想像してください。
皆さんは、この出来事の目撃者なのです。
皆さんは何を感じ、何を思われるでしょうか。
→そこにいた人々は「恐れに打たれた」とあります。
人々は神の臨在を感じたのだと思います。
神がここにおられる、神がそばにおられると感じた時、
人は恐れに捕らわれ震えおののくのではないかと思います。
そして人々は、病気で苦しんでいた人がいやされたのを見て、
神を賛美しました。
この場にいた人たちは、神が病気で苦しんでいる人を顧み、
いやされたという出来事を目撃しました。
ここに神がおられる、自分たちを顧みてくださる神がおられると
感じたのではないでしょうか。
イエスのいるところ病人がいつも連れてこられました。
→もう一つイエスの働きを見ます。
7章11節。ナインという町での出来事です。
イエスがナインの町に入られると、
棺が担ぎ出されるところに出会いました。
それはある母親の一人息子が死んだのです。
彼女はやもめでした。夫は死んでもういないのです。
そこでイエスはその母親を憐れに思い、「もう泣かなくとも良い」と言われました。
そして、棺に近づいて手を触れ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われました。
すると、死人は起き上がってものを言い始めました。生き返ったのです。
→これもまた驚くべき出来事です。
死んだ息子の母親からすれば、たった一人の息子が生き返ったのです。
息子を喪った悲しみがかき消されました。
これはどう考えたって、神さまのみ業と考えるしかありません。
→そこにいた人々に何が起きたのでしょうか。
人々は皆恐れを抱いたとあります。
神がここにおられるという感覚に包まれたと思われます。
そして人々は神を賛美して、「大預言者が現れた」と言いました。
→さらに人々は、「神はその民を心にかけてくださった」とも言いました。
人々は、神がやもめに目を留め、亡くなった子を生き返らせたと受けとめました。
→イエスは、自分の前に連れてこられた病人を全て癒やされました。
病人を見て、ある人を癒やし、ある人の癒やしを拒むことはしませんでした。
イエスは病人を皆憐れみ、イエスのもとに連れて来られたすべての人を癒やされました。
この癒やしは神のみ業です。
この癒やしの出来事は、
神はすべての人を顧みる神であることを伝えています。
神による癒やしは恵みです。
神はすべての人を恵みをもって取り扱ってくださることが分かります。
この神のもとにいれば、人は安心して生きていけます。
自覚的に神を信じ、神と共に、神の守りの中で歩むことができる、
それは神の国に生きることであるとイエスは伝えたのではないでしょうか。
→イエスは神のもとに生きる人々の幸いを示しました。
イエスは言葉で神と共に生きる幸いを語らなかったかもしれません。
しかしいやしの出来事、死者の生き返りの出来事は、
神がおられること、神は苦しみの中にある人々を顧みてくださる方であることを
ありありと示しました。
神は生きて働かれる神です。
神の国とは神の力強いお守りのあるところを意味します。
人は神のご支配の中を生きることができます。
神の国とは、神の御支配を意味します。
イエスは神の国が今ここにあることを示されました。
イエスは人々に神に立ち帰り、
そして自覚的に神を信じる生活をするように招かれたと言ってよいと思います。
3.イエスの教え
→神の国を理解するためにイエスの業を見てきました。
群衆がイエスのもとに集うのは、病気をいやしてもらうためだけではありません。
イエスの教えを聞くという目的もありました。
イエスが安息日カファルナウムの会堂で人々に教えていたことがあります。
ルカ 4:32
人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。ルカ 5:1
イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
→人々は神の言葉を聞こうとしてイエスの周りに押し寄せました。
イエスの語る言葉に権威があったからです。
そこでもっと聞きたいと人々は願ったのです。
人々は癒やしを求めてイエスのもとに行っただけではなく、
神の言葉を求めて、イエスのもとに行きました。
→神の言葉、権威ある言葉に人は渇きを覚えるのではないでしょうか。
人々はイエスの言葉に権威を感じました。
→人が権威を感じる説教ってどんな説教でしょうか。
その一つは、自分の罪を思わされる説教ではないかと思います。
自分の罪を指摘するような説教です。
自分が神の前に罪を犯していると知らされる説教です。
このように悔い改めに導く説教を人は聞きたいと思うのではないでしょうか。
これは、人を信仰に導く説教だからです。
→イエスは徴税人レビの家で食事をした時に語りました。32節。
ルカ 5:32
わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。
ルカ福音書において、イエスや弟子たちが語った福音とは、罪の赦しの福音ではないかと考えます。
この福音書の最後でイエスは語ります。
ルカ 24:47
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
→そしてルカ福音書の15章の放蕩息子の物語のたとえ。
父の家を出て行った息子が、生活に行き詰まり、父のもとでの生活が幸いであったことに気づき、
父のもとに帰るという話しです。
悔い改めて父なる神のもとで生きることの幸いを伝えています。
→イエスの働きを思いめぐらします。
イエスは病人を癒やし、死人を生き返らすなどの奇跡を行い
人々に自分たちを愛し、心にかけてくださる神のおられることを伝えました。
また人々に権威ある響きを持つ説教をし、
人々を神に立ち帰るように
悔い改めに導く働きをしました。
神の御支配の中を生きる幸いをイエスは言葉と行いによって示されました。
4.神の国と私たち
→現代では、説教者は病気を癒やしたり汚れた霊を追い出すなど、
イエスが行ったようなことはしません。
牧師はそのようなことを行う力を授けられていません。
その代わり、イエス・キリストの十字架を語ります。
人々を悔い改めに導きます。
罪の赦し、罪の捕らわれからの解放を宣べ伝えます。
神の愛を伝えます。
ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
→私は神の前に自分が罪人であることを知っています。
罪のゆえに滅びても仕方のないものであることを知っています。
しかしイエス・キリストを信じ、信仰によって義とされ、
今や神は私のことを正しい者と認め、
神の子としてくださっている恵みを知っています。
この恵みは神の愛から出る恵みです。
神に愛され、生きる励ましと力を得る幸いは、
病気の癒やしにまさるとも劣らない幸いであると思います。
→キリストの十字架を通して神は私たちに対する愛を示されました。
十字架ほど明確に力強く神の愛を伝えるものはありません。
キリスト者は、罪を犯します。
しかし神は罪を赦し、私たちを守りながら、私たちを生かしてくださる神です。
キリスト者は今、神の国を生きているのです。