牧師の働きから隠退して8年が過ぎました。聖書を読まない生活は考えられません。聖書を知りたいという強い思いがあるからです。牧師として礼拝説教を行ってきましたが、聖書は高い山のごとく、私はまだ頂上からは遙か下を登っているような思いです。生きている限り、少しでも聖書、信仰の世界の深みを知りたいと願っています。そして今、エフェソ書にはまっています。心に残る聖句があるので、紹介していきたいと思います。
エフェソ 1:7~10
わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。
神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、
秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。
こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。
9節で秘められた神の計画というものがあること、それは10節で、あらゆるものがキリストのもとにひとつにまとめられるとあります。終末の時が来ると救いの業が完成し、キリストのもとにひとつにまとめられるというのです。こんな計画があるなんて、この箇所を読むまで知りませんでした。壮大な神の計画です。これと似た事をフィリピ書も語っています。
フィリピ 2:6~11
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
フィリピ書では、あらゆるものがイエスの御名にひざまづき、イエス・キリストは主であると公に宣べて、父である神をたたえるとあります。終末において最後の審判が行われると聖書は書いていますが、エフェソ書、フィリピ書は、終末の時の別な面を描いています。
私たちが生きている現実の世界は、分断が強まる世界で、争い、対立が絶えない世界です。沢山の人が苦しみの中にあります。しかし、この終わりの時にもたらされるキリストにあってあらゆるものが一つにまとめられます。いつの日か、その光景を見ることができると教えられます。楽しみです。
