若い頃、エフェソの信徒の手紙は教会について論じた手紙だと学びました。そのことが最近、ようやく分かってきたような気がします。このエフェソの信徒への手紙において、教会はキリストの体であり、キリストはその頭であると書かれています。このことがこの手紙の中心テーマと言えるのではないかと思います。
エフェソ 1:22~23
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
キリスト者はキリストの体に属し、キリストはこの体の頭(かしら)とあります。キリスト者は頭であるキリストに結びつけられた存在となります。キリスト者とは、キリストを自分の頭とし、キリストにつながる存在ということができます。キリスト者がキリストに結ばれていることは、ヨハネ福音書のぶどうの木のたとえも示しています。
ヨハネ 15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
キリスト者とキリストが結ばれていることについて、パウロはローマの信徒への手紙でも書いています。
ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
この聖句では、キリスト者はキリストに結ばれ、キリストと共に死に、キリストが復活したようにキリスト者は新しい命に生きると書いてあります。キリスト者もまた死と復活を体験したものだというのです。
キリストに結ばれて生きる、どういうことでしょうか。簡単には言葉で説明できません。説明できないというより、よくわかりません。キリストに結ばれて生きる、これはキリスト者の課題です。
ヨハネ 1:14
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。
言が肉となったのがイエスです。それでキリストに結ばれて生きるとは、御言葉に結ばれて生きると理解し、御言葉に親しみ、御言葉によって考え、御言葉によって生きることがキリストに結ばれることと私は受けとめ生きてきました。み言葉を知らない古い自分が死んで、御言葉に生きる新しい自分が誕生しました。
