クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 霊の導きに従って生きる

 昨日説教奉仕をしましたので、説教を紹介します。

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詩篇 119篇105節
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

ガラテヤの信徒への手紙 5章16~17節

 5:16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
 5:17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

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0.導入

 

→過ぐる6月8日にはペンテコステの礼拝を献げました。

イエスの弟子たちが祈っていると、彼らの上に聖霊が降りました。

彼らは力を受け、キリストを宣べ伝え、教会が誕生しました。

この時以降、イエス・キリストを信じた人は、聖霊を賜物として受け、

聖霊の導きを受けて生きる者とされました。

そこで今日は、聖霊の導きを受けた信仰者の歩みについて

聖書に基づき、お話ししたいと思います。

1.信仰者の誕生

コリント一 12:3
ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

→聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないとあります。

洗礼を受け、イエス・キリストを信じて信仰生活をし、

「イエスは主である」と告白する人は、聖霊の導きによって、告白しているのです。

私たちはイエスのことをどこから知るかと言えば、聖書からです。

では、聖書を読めば誰でもイエスのことを主であると信じることができるのでしょうか。

コリント一2:14
自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。

→「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」とあります。

自然の人とは、生まれながらの人、イエス・キリストを信じていない人のことです。

「神の霊に属する事柄」とは、聖書に書かれていることです。

自然の人は、

神の霊に属する事柄を受け入れないのです。

つまり聖書に書いてあることは愚かなこととし、

受け入れないのです。

たとえば十字架の上で殺された人が救い主だなんて、

自然の人は信じません。

死んだイエスが復活した、そんなありえないことを信じるなんて、愚かなことだと言います。

人は神の霊に導かれなければ、聖書を受け入れることができず、

「イエスは主である」と告白することはできません。

 

→聖霊の導きがなければ、私たちはイエスのことを、

そしてイエス・キリストによる救いのことを信じることはできません。

「イエスは主である」と告白するのは、聖霊の導きによります。

「イエスは主である」と告白する人は、聖霊の導きを受けて告白したのです。

 

2.新しく生まれたキリスト者

 

→聖霊の導きによってイエスを信じた人は、

さらに聖霊の導きを得て、信仰に歩みます。

テトス 3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

→私たちは自分の行った業によって救われるのではなく、

イエス・キリストを信じ、神の憐れみによって救われました。

このテトスの手紙は、キリスト者が洗礼によって

新しく生まれたことを告げています。

もう一度読みます。(テトスの手紙を読む)

 

→キリスト者は洗礼を受け、新しく生まれたのです。

新しく生まれたという実感、皆さんにありますか。

新しく生まれたとはどういうことでしょうか。

皆さんは洗礼を受けた時、信仰者として生きて行こうと思ったはずです。

皆さんのなかには、洗礼を受けた時は、牧師に勧められて受けただけで、

まだ信仰のことはよく分からなかったという方もおられるかもしれません。

でも今、こうして信仰生活を続けていることは、

信仰者として生きていこうとの思いを持っていることを証明しています。

「信仰者として生きて行こうと思った」、

それが新しく生まれたということです。

それ以前のあなたは、キリストを信じて生きていませんでした。

キリストを信じて生きることなど考えてもいませんでした。

洗礼をきっかけにあなたはキリストを信じて生きていくようになります。

つまり、あなたは生まれ変わったのです。

 

→では、何が変わったのでしょうか。

それは、人格としての「あなた」です。

人格としての「あなた」は、生き方を変えたのです。

聖霊の導きにより、生き方が変えられたのです。

人格としての「あなた」とは、

あなたが人と会話している時、「私は~」と語るときの「私」、

それが人格としての「あなた」です。

 

→ここで大切なことは、人格としての「あなた」と

「あなたの心」は別ものであるということです。

「あなたの心」は、人格としての「あなた」ではないということです。

「あなたの心」は、あなたの心ですが、人格としての「あなた」ではありません。

なぜなら、人格としての「あなた」は

「あなたの心」を観察できます。

「あなたの心」がこうしたいと思っても、それはしてはいけない、と

人格としての「あなた」は判断することがあります。

新しく生まれたのは、人格としての「あなた」です。

洗礼を受けても心は簡単には変わりません。

 

→キリスト者は信仰生活を続けます。

礼拝の中で説教を聞き、

日々の生活で聖書を読み、祈る中で、心は変化していきます。

しかし新しく生まれたのは、人格としての「あなた」であり、

「あなたの心」ではありません。

 

3.霊の導きに生きるキリスト者

 

→新しく生まれ変わったキリスト者は、

神の教えに従って生きようと考えます。

今日のガラテヤ書を読みます。

 

5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

→この言葉を理解するためには、次の17節を理解することが大切です。

5:17
肉の望むところは霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

→肉の望むところ、霊の望むところとあります。

肉とは何でしょうか。霊とは何でしょうか。

肉をあなたの心、霊を人格としての「あなた」と理解するとわかりやすいと思います。

人格としての「あなた」は、洗礼を受けて生まれ変わり、

信仰者として生きようと考えています。

神の御心に従って生きようと考えています。

神の教え、掟にも従おうと考えます。 

 

→しかしあなたの心は違います。

信仰者であろうとなかろうと、

人間の心の特徴は自己中心的であることです。

自分を第一にすることです。

この自己中心、自分を第一にする心は、

私たちが神の国に行くまでなくなりません。

しかし信仰生活をする中で、神を第一にする心は育っていきます。

信仰者の中で、神を第一にする心と自分を第一にする心がせめぎ合うのです。

この二つの心が対立し争うのです。

 

→だから人格としての「あなた」が神の教えに従おうとすると、

あなたの心が反発することがあります。

霊の望むこととは、人格としてのあなたが望むことです。

肉の望むこととは、あなたの心が望むことです。

 

→この二つは時に対立し、反発し合います。

17節の前半は、この二つが対立し合っているとあります。

この対立の結果何が起きるかというと、

自分のしたいことができないのです。

人格としてのあなたがしたいと思うことができないというのです。

 

→たとえば、聖書には「互いに赦し合いなさい」との教えがあります。

人格としてのあなたは、そうだ、赦そうと考えます。

しかしあなたの心は、あの人からあんなコトされて赦せるはずないでしょ、私は傷ついたのよ、と語ります。

結果、どうなるかというと、17節の後半、「したいと思うことができないのです」。

赦せないのです。

したいことができない、多くのキリスト者の悩みだと思います。

 

→あるいは、神に信頼して踏み出そうと人格としてのあなたが考えます。

しかしあなたの心は、信頼して裏切られたらどうするのと心配し、

神に信頼する歩みに踏み出せないということもあります。

 

そこで16節をもう一度読みます。

5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

→「霊の導きに従う」とはどういうことでしょうか。

まず聖霊の導き、助けを求めて祈ることを意味します。

 

→人格としての「あなた」が神の教えに従いたいと考えます。

それは聖霊によって、人格としての「あなた」が生まれ変わり、

神の御心に従いたいと考えているからです。

そこで聖霊の導き、助けを求めて祈るのです。

さらに一歩、踏み出すのです。

一歩踏み出す、それが聖霊の導きに従うことです。

その時、肉の欲望を満足させない、つまり反発する心の抵抗に勝つことができるのです。

「決して肉の欲望を満足させない」のです。

あなたは必ず、神の御心に従うことができるとの約束です。

聖霊は、私たちに神の御心に従う歩みを実現させるのです。

 

→繰り返しになりますが、

霊と肉の対立は、葛藤を起こします。

人格としての私と、私の心は対立するのです。

これは罪との戦いです。

この戦いを軽んじてはいけません。

安易に罪に屈して、自分は罪深い者だと言ってもいけません。

私たちは罪深いから、だからキリストによる救いがあるのです。

罪深い私が信仰の歩みを始めるのです。

聖霊の導きに従えば、「決して肉の欲望を満足させない」のです。

私たちは霊の導きに従い、神の御心に生きることができるのです。

すばらしい神の約束、救いの約束です。

 

4.私の証し

 

→ここで私のことをお話しします。

ある時、夜の祈祷会に韓国人の女性が来られました。

観光ビザで日本に来て、実は仕事をしていました。

観光ビザで来た人は仕事をすることは認められません。

雇い主は、彼女の弱みにつけ込んで正当な報酬を支払いませんでした。

そこで何とかして欲しいとの願いを私に打ち明けました。

 

→私には彼女の力になれる自信はありませんでした。

雇い主に会うにしても、彼を説得できる自信はありません。

また人の弱みに平気でつけ込むような人がどんな人か分かりませんので、

その雇い主に会うことに恐れも感じます。

そんな時、私はイエスの語ったサマリア人のたとえを思い出します。

困っている人を見過ごしにすることはできません。

人格としての私は行動を起こすべきだと主張します。

しかし自信はないし、恐れを感じるので、それは無理だと私の心が言います。

かくして心に葛藤が生じます。

罪との戦いが生じます。

私は思い切って、雇い主のところに出かけ、話をしました。

結果は予想通り、説得もできず、失敗に終わりました。

彼女の助けにはなりませんでした。

結局彼女は、韓国に帰りました。

クリスマスにカードが届きました。

そこには感謝の言葉が書かれていました。

 

→信仰の戦いは逃げてはいけないと学びました。

彼女のために行動したことを喜んでもらえました。

自分の力で何とかしなければとの思いは、傲慢であると思いました。

失敗してもいい、寄り添うことができればそれで良い、

そう思いました。

このことを通して、霊と肉の葛藤のある時は、思い切って、霊の導きに従うことが大切と学びました。

何かが生まれます。

 

→罪との戦いを聖霊の助けなしに、自分の力、自分の努力で罪と戦おうとすると失敗し、

自分はなんてみじめな人間なのだろうというところに落ち着きます。

でも聖霊の導き、助けがあるのです。

ペンテコステの出来事は、聖霊が私たちの内におられることを伝えています。

 

5.聖霊に導かれる生活のために

 

→もう一度16節を読みます。

5:16
わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

「霊の導きに従って歩みなさい」とありますが、ギリシャ語の表現としては、霊の導きに従って歩み続けなさいとの意味です。

常に霊の導きに従う歩みをするのです。

どのようにして続けていくのでしょうか。

 

→その鍵は聖書です。

テモテ二3:16
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。

→聖書は神の霊の導きのもとに書かれました。

その目的は、「人を教え、戒め、誤りを正す」とあります。

ですから霊の導きに生きようとするなら、聖書を読むことです。

霊の導きに歩むことを続けるなら、

聖書を読み続けることです。

聖書に親しむことです。

詩篇119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

→これも聖書が、私たちを導くことを教えています。

霊の導きに従うとは、聖書の言葉によって導かれるということです。

ではどのように聖書を読んだらよいのでしょうか。

ここからは聖書の読み方についての私の提案です。

 

→聖書を読む時は、

まず最初に聖霊の導きを祈ります。

聖書を悟ることができるように祈ります。

聖書を読む上で二つのポイントがあります。

第一のポイントは、聖書を読む時、神はどのようなお方であるかを読み取ります。

神がどのようなお方か、それは聖書に書かれているからです。

神がどんな方か知らずに、神を信じる生活はできないと思います。

神がいかなる方かを知れば、

神と、どのように関わったらよいのかが分かります。

旧約聖書には、神とイスラエルの民との関わりが描かれています。

それを読むと、神がいかなる方かが分かります。

まず神を知る、それが大切です。

 

→聖書を読むと、たとえば、神が罪に対して怒る場面があります。

アダムとエバはエデンの園を追い出されました。

ノアの洪水で当時、地上にいた人々は皆洪水で死にました。

これらを読むと神は罪に対して怒る怖い方であると知ります。

罪に対して怒る、これは神のひとつの性質です。

神は正しい方ですから罪を嫌います。

罪に対して神は怒る方であると知っても

私たちは神を信じたいとは思いません。

しかし神は愛の神であり、罪を犯す人間を憐れみ、罪を赦す方であると知る時、

私たちは信仰に導かれます。

勿論それは聖霊の導きです。

この世の人々は、自分が罪を犯しているという聖書の指摘を受け入れませんし、罪を悔い改めることなど考えません。

聖書の神は、罪を悔い改める者を赦し、信じる者を罪から清めてくださる神です。

 

→第二のポイントは、神が望む信仰者の生き方を知ることです。

神の前にいかに生きたらよいのか、聖書から読み取ります。

そして是非、悟ってほしいことがあります。

それは神が望む信仰者の生き方は、

信仰者を祝福する教えであるということです。

 

→だれだっておいしいものは、食べたいと思い、食べます。

神の教えは、私たちを祝福する教えだと知れば、

誰だって神の教えを守りたいと考えるのではないでしょうか。

だから、神の教えを守らなければならない、などと考える必要はありません。

もしあなたが神の教えを守らなければならないと考えているなら、神を愛することを考えてください。

神を愛するとは神の御心を大切にすることです。

そうすれば、神の教えが信仰者を祝福する教えであることを悟ることができると思います。

 

→さらに聖書を読む時は思いめぐらすことが大切です。

神さまがいかなる方かを知ります。

神さまは私たちにどんな生き方をしたら良いのか教えてくれます。

そこで次に自分自身を思いめぐらすのです。

 

→私には信じていることがあります。

神は、私を愛してくださっている。

神は、私の状況をご存じである。

神は、私のために、最善の人生を導かれる方である。

 

→だからその神の導きを思いめぐらします。

今日読んだ聖書を通して、神は私に何を語りかけているのか、

思いめぐらすのです。

そして、その神の語りかけに従うのです。

それが聖霊の導きに従うということです。

聖書を通して、キリスト者は聖霊の導きを得ることができます。

 

→明確に「これをしなさい」との導きを聞き取ることができるとは限りません

でもこうしてみたいな、こうしたらいいのかもしれない、

というようなことがあれば、それを神の導きと受けとめます。

神の導きは、私たちが何をしていいか分からなくなった時だけに与えられるものではありません。

私たちが困った時だけに求めるものではありません。

神は私たちのことを良く知っておられ、こうしたら良いよと語りかけてくださいます。

神は私たちの人生を導かれるのです。

私たちの思いをこえて導かれるお方です。

そのことを詩篇の言葉が表現しています。

詩 119:105
あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。

聖書に親しみ、聖霊の導きを受けて、歩んで生きていきませんか。

 

祈ります。