イエスはエルサレムに向かう決意を固めました。それはご自分の死に向かって真っ直ぐ進むという決意でした。どうしてこのような決断ができるのかと思いめぐらす中で、もし自分が余命を告げられたらどうするのか、どうなるのかと思いめぐらすように導かれました。否応なく自分の死に向かって歩みます。
私も年を重ねたので自分が世を去る時が来た時には、それなりの覚悟をするつもりでいます。でも今回、具体的に考えてみたいと思いました。
することが許されるなら、聖書黙想をしたいというのが今回の答えです。聖書の言葉をしっかり手に握って終わりの時を迎えたいと思いました。10個の聖句を声に出して読んだり、黙想をして御国に迎えられる準備をしたいと思いました。その内の3つを紹介します。
コリント一 13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
顔と顔を合わせるようにして神を見ることができる。待ち遠しいです。
ヨハネの黙示録 21:1~4
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、
彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
神自ら人と共にいてくださる、これもうれしいです。パウロは「世を去る時が近づきました」と語り、次のように続けて語ります。
テモテ二 4:7~8
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
残された日々を過ごす時、不安や恐れが心の中に湧いてくると思います。心は揺れると思います。聖書の言葉は、私の支えになると信じます。
