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隠退牧師 holala によるブログ

エフェソ書 盾としての信仰

 

 エフェソ書の最後の段落は、信仰者の敵、神の敵である悪魔に対して神の武具を身につけて対抗しなさいと勧める言葉で始まっています。今回取り上げるのは信仰という「盾」です。

エフェソ 6:16
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。

 悪い者の放つ火の矢とあります。これは信仰者の心に湧いてくるさまざまな思いを指します。それによって信仰者の心は動揺するのです。たとえば、恐れ、不安、心配、疑いなどの思いが心の中に湧いてきて、信仰者の心は揺れ動きます。

 このような動揺が生じる時、信仰の盾を取り、悪い者の放つ火の矢を盾で防ぐのです。信仰の盾、それは言い換えると、御言葉の盾と言えるのではないかと思います。聖書の言葉を握りしめ、私はこの聖句に立つ、と告白して、火の矢に対抗するのです。

 若い頃は思い煩いで悩むことが多かったです。その時に盾となった聖句はこれです。

フィリピ 4:6~7
どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。

 私にとって、防ぐのに困難な火の矢は「疑い」です。火の矢は何かあると「それは本当か、信じていいのか」と私の心の中にささやいてくるのです。疑いはやっかいです。たとえば私は神を信じます。あるいはイエス・キリストを救い主と信じます。神が存在するという客観的な証拠はありません。十字架で死んだイエス・キリストが救い主であるという客観的な証拠はありません。しかし聖書を読み、神を信じる世界に生きようと考えて私は信仰を持ちました。イエス・キリストの十字架の死は、私の罪を贖うための死であったと信じ、イエス・キリストを信じました。

 ここに「神は本当にいるのか。神を信じない人沢山いるじゃないか」。「イエス・キリストは、福音を宣べ伝えたが、十字架で死んで、その働きは挫折したのではないか」と異論を唱える人に対して、証拠を挙げて反論することはできません。要するに、私は信じない者ではなく、信じる者になりたくて信じるのです。

 イエスは自分の復活を信じようとしないトマスにこう言いました。

ヨハネ 20:27
それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。

 疑いという火の矢は、強烈です。疑いに負けて信仰を捨てるのか、疑いはあるけど信じるのか。疑いを乗り越えて信じるのか。

ヨハネ 20:29
イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。

 見ないのに信じる人は幸いである。見ないのに信じたい。でも「本当に信じていいの」と悪い者の火の矢がささやくのです。「疑い」は強い敵です。疑いをはねのける信仰の盾、それはどのような盾なのか。どのような御言葉が信仰の盾となるのか。追求中です。

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