教会員が「私は年をとって(教会における奉仕)何もできなくなりました」と話すと、牧師が「祈ることはできますよ」と語る、そういう会話がよくなされてきたように思います。最近『祈りについて~神との対話』(カルヴァン)を読み、わが身を振り返るとき、あの「祈ることはできますよ」との言葉が本当だと思うようになりました。
カルヴァンは祈りは「神との対話」と言います。私自身は、祈りは神との交わりと考えてきましたが、対話とは考えてきませんでした。対話なら、人間同士が会話するようなイメージがあります。自分の気持ちを積極的に打ち明けるというイメージがあります。祈りは神との交わりと考えた私は、自分の願いを伝えることに終始していたように思います。
今私は老いを生きています。私の場合、老いを生きることには、やっかいな面があると感じています。心身の衰えがあります。病気が襲ってきます。死という人生の終わりを意識せざるを得ません。キリスト者ですから、神と共に歩む幸いの中におかれています。でも色んな思いが心を去来します。
そのような思いを神に語り、神と対話するという祈りは大切であると教えられました。神との対話を通して、平安を与えられるのではないかと考えるからです。
また私は、祈りのノートを作り、祈りの課題を順に祈っていますが、ここには対話の要素はなく、願いを神に告げるだけの祈りになっていました。何となく、義務感で祈っているという思いもあり、祈ることがうれしくないと感じることもあります。対話を取り入れる工夫が必要ではないかと思わされます。
世界の動き、世の中の出来事なども、見ていて何もできませんが、神に祈ることは大切であると思って祈っています。ウクライナやガザのことを覚える時、祈っても何の変わりもなく、祈ることに空しさを覚えたり、神はなぜ沈黙しているのだろうか、と思うこともあります。神を批判するような態度は思い上がりだと自戒します。ですからそのことも神と対話しつつ祈ることも教えられました。
老人は、対話の祈りを目指すのに恵まれている、と思うようになりました。祈りの生活の充実を目指し、老いの日々を豊かにしたいと願います。
