私は何かをする場合、準備をします。初めてのところに出かける場合は、地図で場所を確認し、交通手段の時間は調べて当日迷うことなく目的地に行けるようにします。死に対しても準備をしています。
老いの中にあって、キリスト者として神の国の希望をたしかにするために、神の国の希望を語る聖句を色々調べ、神の国に向かうことについてイメージをもつようにしています。そのような聖句をいくつかブログでも紹介しています。信仰の面では、それなりに心の準備はできたように思います。
最近、どこで、どのように老いの生活を送るのか、を考えて思い煩いました。ある先輩牧師夫妻は、自立型の老人ホームを予約していて、「空きましたよ」と連絡が来た時、それまで住んでいた住まいを急遽整理して入居したとの話を聞いたことがあります。私は自分の持ち家に住んでいるわけではないので、今住んでいる場所は終(つい)の棲家(すみか)ではありません。差し迫って今すぐ何かをしなければならないという状態ではないのに、先のことを考えはじめて思い煩いました。
昨日の夜、心が満たされた思いになっていて、なぜこんな思いになったのかと思いめぐらしました。昨日はG教会で説教奉仕をしました。説教奉仕をした充実感なのかなと思いました。でもちょっと違うような気がしました。G教会への往復の電車の中で、考え事をしていましたが、<そうだ、老いの歩みの中で、何かあっても神さまは導いてくださる>との思いが湧いてきて、心が安らかになったことを思い出しました。
神はわたしと共にいてくださると信じています。自分の老い先を考えて、あらためて神が共にいて導いてくださるのだとの思いを与えられて心が落ち着きました。「私はいつも君と共にいるよ」との神さまの声を聞いたような気がしました。
