説教の紹介です。
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旧約 詩編99編 1~3節
新約 ルカ福音書 11章1~4節
説教 御名が聖とされますように
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ルカ福音書 11章1~4節
イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
1.御名が聖とされますように
→今日は説教題を「御名が聖とされますように」としました。
ルカ福音書の主の祈りでは、「父よ」と呼びかけた後、
「御名が崇められますように」となっています。
今日はこの祈りだけを取り上げたいと思います。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、素直に訳せば、
「御名が聖とされますように」となります。
→なぜ、「御名が崇められますように」と訳されたのかなと考えた時、
この訳のほうが日本人にはわかりやすいと判断されたのではないかと想像します。
カトリック教会では2000年に「主の祈り」の口語文を定めました。
そこでは「み名が聖とされますように」とあります。
それ以前の文語文の主の祈りは、
「願わくは、御名の尊(とうと)まれんことを」となっています。
→最近新しく発行された聖書、「聖書協会共同訳」でも
マタイ、ルカ福音書の主の祈りの部分は、
「御名が聖とされますように」となっています。
「御名」は神の名前のことです。
神にも名前がないと、その神を呼ぶことはできません。
御名が聖とされるとは、その御名で示される神が聖とされるということです。
2,旧約の背景
→この「御名が聖とされますように」という言葉を理解するために
旧約聖書に目を向ける必要があります。
聖書が伝える神は、御自分がいかなるものかを告げる神です。
たとえば創世記18章で神はアブラハムに、
「私は全能の神である」と語りました。
レビ記11章で神は「私は聖なる者である」と
イスラエルの民に語られました。
→イエスが「御名が聖とされますように」と
祈るように教えられたことを理解するために
旧約聖書から二つのことを紹介します。
最初はモーセが、「神が、聖なる神であることを示さなかった」
という話しです。
民数記20章で神はモーセとその兄アロンに次のように語っています。
民数記 20:12
主はモーセとアロンに向かって言われた。
「あなたたちはわたしを信じることをせず、
イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった。
それゆえ、あなたたちはこの会衆を、
わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない。
→神はモーセに、あなたは「イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と指摘します。
聖なることを示す、それは神が神であることを示すこと、と言ってよいと思います。
モーセはそれを行わず、
罪を犯したのです。
どういうことでしょうか。
→昔、イスラエルの民はエジプトの国で奴隷でした。
奴隷として苦しむ日々が続きました。
イスラエルの民は神に助けを求めて祈り続けました。
神は彼らの叫びを聞き、彼らを奴隷状態から解放し、
自由に生きることのできる土地へ連れて行くと約束します。
イスラエルの民はエジプトから解放され、約束の地を目指し、
荒野を旅します。
ある時、飲み水がなくなりました。
するとイスラエルの民は、不平を言い出します。
「水がないので、このままでは死んでしまう」と文句を言います。
モーセは神に頼ります。
神はモーセに「岩を杖でたたきなさい」と命じます(出エジプト17章)。
モーセが岩を杖でたたくと水が出て、民の渇きは癒やされました。
→その後の荒野の旅で、イスラエルの民は不信仰な態度をとったので、
神は、イスラエルの民をすぐに約束の地に連れて行くことをせず、
彼らに荒野で40年の生活をさせ、神に信頼すべきことを学ばせました。
荒野にはパンも水もありません。
でも神が彼らを養ったのです。
神は毎日天からマナを降らせ、イスラエルの民の食物としました。
その40年が過ぎ、いよいよ約束の地を目指して旅を始めます。
→またもや飲み水がなくなるという事態が起きました。
神に信頼すべきことを学んだはずの民が、またもや不平を言います。
モーセは神に相談します。神はモーセに命じます。
民数記 20:8
「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
→「岩に水を出すように命じなさい」と神は言うのです。
しかしモーセは岩に命じませんでした。
モーセは、杖で岩をたたきました。
以前、杖で岩を叩いて水を出したことがあるからです。
水は出ました。
でも、それでよかったとはなりません。
→モーセは岩に水を出すように命じるべきでした。
そうすれば、岩から水が出たのです。
モーセが岩に水を出すように命じるのをイスラエルの民は見るのです・
そして水が出るのを見るのです。
神のみ業を見るのです。
イスラエルの民は、神のみ業を見て、驚くのです。
神に信頼するように導かれるのです。
でもモーセは岩に命じませんでした。
神の素晴らしさを示さなかったのです。
→神が語られることは信頼に足ること、神の言葉は出来事を起こすこと、
そのことをモーセは示さなかったのです。
つまり、神がまことの神であることをイスラエルの民の前に示さなかったのです。
そこで神はモーセに対して怒ります。
「あなたはわたしを信じることをせず、
イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」。
モーセは神が神であること、神が聖なる神であることを示さなかったのです。
モーセは神の栄光を現さなかったのです。
→次は「神の名を汚す」ということについて。
今度は出来事ではなく、神の戒めに目を向けます。
神はイスラエルの民に十戒を与えました。
第一の戒めは、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」です。
これに関連して神は次のような戒めを与えられました。
レビ記 18:21
自分の子を一人たりとも火の中を通らせてモレク神にささげ、あなたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。
→モレクという神を礼拝し、自分の子供をいけにえとしてささげるようなことをして
<神の名を汚して>はならない、と戒めています。
偶像礼拝をすることは、主なる神の名を汚すことだというのです。
偶像礼拝をすることは、主なる神は当てにならないと考えていることを態度で示しています。
つまり神に向かって、あなたは当てにならないということは
神を侮辱すること、神の名を汚すことです。
主なる神を神としない、それは神の名を汚すことだと神は言うのです。
レビ記 20:2~3
自分の子をモレク神にささげる者は、必ず死刑に処せられる。
自分の子をモレク神にささげ、わたしの聖所を汚し、わたしの聖なる名を冒とくしたからである。
→このようにイスラエルの民が偶像礼拝の罪を犯すこと、
それは神の名を汚すこと、また神の名を冒とくすることだと神は言われます。
逆に彼らが偶像礼拝をしないなら、それは神が神であること、
神の「聖なることを示す」ことになります。
→このように考えると、イエスが祈りの教えの最初で、御名が聖とされるようにと祈った理由が分かります。
神を信じる者は、神がまことの神であることを信じ、
その信仰を行いであらわすのです。
そこで主の祈りの最初で第一に祈るべきこととして、
「御名が聖とされますように」と祈ることをイエスは教えたのです。
3.神との交わりの中で
→「御名が聖とされるように」との祈りですが、
だれが「御名を聖とする」のでしょうか。
それは、神を信じる者です。
神を信じる者が、神がまことの神であることを示すことによって
神が聖なる神であることを示します。
神の御名を聖とします。
神の御名はどんな時も常に聖ですが
信仰者の振る舞いは時に神の名を汚します。
モーセはその例です。
御名を聖なるものとするのは、信仰者です。
→ここで大切なことは、
信仰とは神との交わりに生きることを知ることです。
このことを教えるのが、出エジプトの出来事です。
→エジプトでの奴隷状態から解放されたイスラエルの民は、
シナイ山の麓で神と契約を結び、神の民となりました。
神はイスラエルの民に、私はあなたがたの神となると約束し、
イスラエルの民は、私たちはあなたの民として、
あなたの戒めを守りますと約束しました。
かくして互いに約束を交わし、契約が成立しました。
神を信じるとは、神との関わりに生きること、
神との交わりに生きること
神との契約に生きることと示されます。
そこにおいて、神に対して失礼なことをすること
それは神の御名を汚すこと、神の御名を冒とくすることになります。
信仰者は、神とどのように向き合って生きるのか、
それが大切となります。
→人が交わりに生きる時、相手に対してふさわしい態度を取ることが求められます。
聖書はそれを「愛する」と表現します。
愛し方は自分と相手との関係の中で、決まってきます。
たとえば親子関係を考えるなら、
エフェソ 6:1
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。
→両親に従う、それは子どもにとって両親に対するふさわしい態度です。
両親を愛することです。
エフェソ 6:4
父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。
→父親にとって子どもを怒らせず、しつけ諭して育てる、
それが子に対してふさわしい態度であり、子を愛する態度です。
夫婦関係を考えるなら、
エフェソ 5:22
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。エフェソ 5:25
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
→それでは信仰者は神に対してどのように関わるのでしょうか。
申命記 6:5
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
→イエスも、最も大事な戒めは何ですかと質問された時、
この申命記の言葉を引用しています。
→神を愛する、それが神に向き合う信仰者の態度です。
詩編は神と向き合って生きる信仰者の姿を教えてくれます。
詩編には、「神に従う人」、「神を畏れる人」、「神の慈しみに生きる人」、
この3つの表現が繰り返し出てきます。
→聖書の神は、人間を愛し、人間に恵みを与える神ですから、
この神の愛、恵みに信頼して生きることが大切であり、
このことが「神の慈しみに生きる人」と表現されています。
この神の愛、神の恵みに信頼して、
神に従い、神を畏れる人、それは神にふさわしく向き合っている人と言うことができます。
→ですから、信仰者が神に従い神を畏れることによって、神の御名は聖とされると言ってよいと思います。
しかし神の民イスラエルの多くは、神に従うことがありませんでした。
4.イエス・キリストを信じる者として
→キリスト者もまた、神との交わりに生きるものです。
イエス・キリストを信じる者を神は、神の子としてくださいます。
キリスト者は、神を父と呼び、神の子として生きていきます。
父なる神との交わりにキリスト者は歩みます。
神の子として生きる、それは聖なる者として生きると言ってよいと思います。
エフェソ 1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
→私たちは神の子として、また聖なる者として歩むよう、
神に選ばれ、導かれ、キリスト者となりました。
これを別な言葉で表現するなら、キリスト者は「聖別」されたのです。
聖書には「聖別する」という言葉が出てきます。
神があるものを、聖なるものとして他のものから区別する、という意味です。
繰り返します。
神があるものを、聖なるものとして他のものから区別する、という意味です。
→「聖別」ということも旧約聖書を知るとよく理解できます。
神はエジプトから救い出したイスラエルの民に語ります。
レビ記 20:26
あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。
→神はイスラエルの民について、「あなたたちはわたしのものとなり、聖なるものになりなさい」と命じます。
神が「わたしのもの」という時、それは神にとって大切な存在という意味です。
申命記 7:6
あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
→神はイスラエルの民を宝の民とされました。神にとって大切な存在なのです。
そして神は言います。
「わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである。
イスラエルの民は諸国の民とは区別されているのです。
神のものとなるべく区別される、それを聖別と言います。
イスラエルは神のものになるように聖別されました。
彼らは神にとって宝の民とされ、聖別されました。
聖別されたゆえに、イスラエルの民は聖なる者なのです。
→キリスト者もまた聖別されたのです。
キリスト者も神のものとされ、キリスト者でない人たちとは区別されました。
キリスト者が礼拝を献げるのも、聖書を読むのも祈るのも、
キリスト者が聖別されていることのあらわれです。
ペトロ一 2:9
しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。
→キリスト者は神によって選ばれ、
キリストを信じない人と区別されたのです。
それを信じること、それは自分が聖なる者とされたことを信じることです。
聖なる者とされた、これは神の祝福です。
聖なる者、これはキリスト者のアイデンティティーです。
そこで次のような勧めがなされます。
ペトロ一 1:15
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。一テサ 4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
→この二つの聖句は、キリスト者は聖なる者とされたので、
聖なる者として生きるのが神の御心だと分かります。
→私たちは聖なる者とされたことを喜び、感謝し、
キリスト者として、自覚的に歩みます。
キリスト者は世の人と違って
キリストの父なる神を信じる者としての生き方を鮮明にします。
はっきりさせます。
それが聖なる者として生きるということです。
そのことによってキリスト者は神が聖なる神であることを証しします。
それは神の栄光を現すことです。
→「御名が聖とされますように」とは、
キリスト者が、神が聖なる神であることを証しすることです。
神がまことの神であることを証しすることです。
キリスト者は世の人と違い、神を信じる者としての生き方を
鮮明にする、はっきりする。
それによってキリスト者は、まことの神を証しします。
これができるようにとの祈り、
それが「御名が聖とされますように」との祈りです。
神の栄光を現すことができるように、との祈りです。
祈ります。
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祈り
天の父なる神さま、
私たちが御名を聖とすることができますように。
主イエスはこのことが何よりも一番大事なことと教えてくださいました。
私たちが御名を聖とすることができますように。
そのことによって神の栄光を現すことができますように。
神の栄光を現すこと、キリスト者の生きる目的です。
キリスト者としての歩みを全うさせてください。
イエス・キリストの御名によって祈ります。