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隠退牧師 holala によるブログ

神の言葉に生きる幸い

 12日説教奉仕をしましたので原稿を紹介します。

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旧約聖書 申命記 8章1~3節

新約聖書 ルカ福音書 11章27~28節

説教   神の言葉に生きる幸い
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 ルカ 11:27~28
イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」
しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 

1.導入

 

→幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人であると書かれています。

これがどういう意味なのか、聖書に聞き、

この幸いに生きる者となりたいと願います。

 

→今日の箇所の前の段落で、イエスは悪霊を追い出していました。

悪霊に取り憑かれたために口がきけなくなっていた人がいました。

イエスがその人から悪霊を追い出すと、その人は口がきけるようになりました。

この出来事を見ていた女の人が言いました。

27節

「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」。

→イエスは素晴らしい働きをしています。

だからイエスを産んだ女性マリアは、幸いな人だというのです。

 

→「あなたの母はなんと幸いなことでしょう」との言葉を聞いてイエスは、

「その通りです」とは答えませんでした。

「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」と答えました。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         

→ここで二つの問いが生じます。

  • 神の言葉を聞き、それを守る、とはどういうことか。
  • それがなぜ幸いなのか。

2.神の言葉を聞いて守る

 

→神の言葉を聞いて守るとはどういうことでしょうか。

当時の人々は、私たちと違って自分の聖書を持っていませんでした。

会堂での礼拝では、聖書朗読がなされ、説教がなされます。

人々は、会堂の礼拝で「神の言葉を聞いた」のです。

私たちも教会の礼拝で説教を聞き、神の言葉を聞きます。

私たちは自分の聖書をもっており、聖書を読むことを通しても、神の言葉を聞くことができます。

 

→では、神の言葉を聞いて守るとは、

<神の戒めを守る>ということでしょうか。

幸いなのは、神の戒めを守る人であると言われたら、どうでしょうか。

その通りだと共感できるでしょうか。

私は自分が神の戒めを守る幸いな人になれないことを知っています。

あの戒めは守りたくないし、守れないと思ったことがあります。

神の言葉を聞いて守るって、もっと別なことのように思えます。

聖書には、神の戒め以外のことが沢山書かれています。

 

→神の言葉、それは神が語られた言葉です。

神が語る言葉です。

神が語るのは戒めだけではありません。

神の言葉で私が注目しているものが二つあります。

ひとつは神の約束です。

もう一つは、神がいかなる方かを示す言葉です。

このことをお話しします。

 

3.神の約束の言葉

 

→最初は、神の約束についてです。

旧約聖書の創世記12章で神はアブラハムに語りかけます。

創世記 12:1~2

主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示

す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

→ここで神はアブラハムに約束を与えています。

まず、あなたを大いなる国民にするとの約束。

あなたを祝福するとの約束。

あなたの名を高めるという約束。

あなたを祝福の源とするという約束

12章2節をもう一度読みます。

創世記12;2
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

→創世記は、この約束がいかに実現に向かっていくかということを語っています。

次は出エジプト記です。

イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しみの生活を続けていました。

彼らはこの苦しみからの救いを求めて神に祈り続けました。

すると神はモーセという人物を用いて、イスラエルの民を救おうとします。

ある日、神は羊の群れを率いていたモーセに語りかけます、

出エジプト 3:7~8
主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。

 

→ここにも約束があります。神は二つのことを約束します。

  • 神は、イスラエルの民をエジプトから救い出すこと。つまり奴隷状態からの解放の約束です。
  • 広々としたすばらしい土地に連れて行くとの約束。つまりイスラエルの民は、その地で、自由に生きることができるとの約束です。

 

→神は大いなる業を行い、イスラエルの民を奴隷状態から解放しました。

自由に生きることのできる約束の地へ行く途中、

シナイ山の麓で神はイスラエルの民と契約を結びます。

そのとき神は、「私はあなたたちの神となる」と約束します。

 

→旧約聖書の、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記は

この神の約束が実現していく様子を描いています。

こうしてみると神の約束は、聖書の中で、

重要な位置を占めていると言ってもよいのではないでしょうか。

 

→さらに新約聖書では、

イエス・キリストを信じる者に対する神の約束もあります。

 

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

→この聖句は、神の御子であるイエス・キリストを信じる者には、

永遠のいのちが与えられるという約束を語っています。

 

ローマ 3:23~24

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

 

→イエス・キリストを信じる人は、神の前に義とされる、つまり神の前に正しい人とされるとの約束があります。

そこには、イエス・キリストを信じる人はすべての罪が赦されるとの約束も含まれています。

 

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 

→ここには、イエス・キリストを信じる人は、イエスに結ばれて神の子にされているとの約束を読むことができます。

 

→以上のことを考えるなら、聖書は大切なこととして人間を救う神の約束を語っていることがわかります。

 

→神の言葉を聞いて守るとは、

神の約束を聞いて、その約束を信じ、

その実現を目指して生きることと言ってよいのではないでしょうか。

信仰とは神の約束に生きることです。

「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」は

「幸いなのは、神の約束を信じて生きる人です」と言うことができます。

 

4.神を知る

 

→神の言葉でもう一つ大事なことは、神の言葉は、神がいかなる方であるかを教えていることです。

信仰者が安心して神を信じることができるように神はご自分がいかなる存在であるかを明らかにします。

神がどのような方かを知らずに神を信じることは、怖いです。

 

→神さまは、時に自分がどのようなかたかを明らかにします。

 

創世記17:1
 アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」。

 

→神はご自身が「全能の神」である、とアブラハムに伝えました。

これには理由があります。

神はアブラハムに大いなる国民になると約束しました。

これはアブラハムが75歳の時です。

彼には子どもがいません。

そしてアブラハムが99歳の時、まだ子どもはいません。

その時、神はご自身が「全能の神」であるとアブラハムに語りました。

これは、あなたへの約束は忘れていないし、

間もなくあなたに子を授ける予定であると

神が言われたようなものです

アブラハムは99歳、妻のサラは10歳下です。

こんな老夫婦に子が授かるはずがないと誰しも思います。

だからこそ、神は「私は全能の神である」と語られました。

アブラハムに子が授かると信じるように励ましたのです。

 

→次は新約聖書です。

エフェソ書の言葉を紹介します。

神が直接ご自分がいかなる方かを語っていませんが、

どのような考えを持っておられるかがわかります。

 

エフェソ1:4~6
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

 

→神は人間を愛し、ご自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと決めたとあります。さらに信じる者を神の子にしようと決めたとあります。

神がこのような考えをお持ちであることを知るとき、私たちは励まされるのではないでしょうか。

 

ヨハネ14:6
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。

 

→イエスは御自身がどのような方かを語られました。

 

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

→この聖句は、神が私たちを愛する神であることを教えています。

 

→神の言葉を聞いて守るとは、

聖書を通して神がいかなる方かを知り、

聖書に示されたとおりの神を信じることと言ってよいのではないでしょうか。

そうすれば、安心して神を信じることができるし、

希望を持つことができます。

 

→私たちは聖書を読む時、そこにどんな神の約束があるのか、あるいは神がどのようなかたとして語られているのか、それを知る努力が大切だと私は考えています。

 

5.幸い

 

→「幸い」なのは、神の言葉を聞いて守る人たちである。

では神の言葉を聞いて守る人たちがなぜ幸いなのでしょうか。

 

→ここにまんじゅうが一つあります。

このまんじゅうがおいしいかどうか、

どうしたらわかるのでしょうか。

食べればすぐ分かります。

 

→同じように神の言葉を聞いて守れば、このことが幸いなのかどうか、分かるのではないでしょうか。

誰でも神の約束を信じて、約束を頼みとして生きるなら、

また神がいかなる方かを知って、その神を信じて生きるなら、

このような信仰の歩みが幸いか否かはわかると思います。

皆さんも、この幸いの中に歩んでおられるのではないでしょうか。

 

→私は、このように生きる人が幸いであることを知っています。

私自身そのように生きてきたからです。

 

→そこで私のことをお話ししてみたいと思います。

神の約束についての証しです。

私は幼い頃、祖母が亡くなり、人は死んだらどうなるのかを考えて、

死を恐れるようになりました。

また人はいつか死ぬ、そう考えたら、生きることが空しくなりました。

心の底で、死の恐れ、空しさからの救いを求めていました。

神さまは私を、キリストを信じるように導いてくださいました。

キリストを信じる者は永遠の命を得ると教えられました。

永遠の命の希望、神の国に迎えられるとの希望を持つことができました。

ほっとしました。

しかし太陽に向かって歩くと後ろに影ができるように、

希望を持つと、それに対する疑いも生じます。

おまえの信じる希望は信じて大丈夫なのか、と悪魔がささやいてきます。

 

→でも聖書には、信じていいんだと励ます言葉が沢山あるのです。

私が大切に思っている聖句を紹介します。

 

ヨハネ黙示録 21:3~4
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。

 

→神の国に迎えられた時、神は私たちを慰めてくださいます。

 

ローマ 8:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

→神の愛から私たちを引き離すものはないと書かれています。

死も神と私たちの間を引き離すことはできません。

私たちは、死んでもなお、神に結ばれているのです。

 

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 

→悪魔が疑いを持ってきた時には、イエスがされたように、

聖書にこう書いてあると口に出し、悪魔を追い払うことができます。

神の言葉は、私に平安をもたらしてくれます。

 

→神の約束についての第二の証しです。

わたしには子供が4人います。

上の3人の子が同時に大学に通っていたことがあります。

その時、経済的にピンチになりました。

その時、目に留まった神の約束が次の聖句です。

 

フィリピ 4:19
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。

 

→神は、必要を満たしてくださるとの約束と受けとめました。

3人の子の大学の費用を満たしてくださるとの約束です。

そこで祈りました。

天からお金が降ってくるとは思いません。

色々な経緯がありましたが、

妻が持っている資格を生かすことのできるアルバイトが与えられ、

必要が満たされたことは忘れられない思い出です。

 

→第三の証は、神を知ることについての証しです。

神学校を卒業し、牧師として働くようになって思わされたことは

自分の未熟さ、能力のなさです。

私は洗礼を受けて一年後に神学校に行きました。

聖書のことも教会のこともよく知らないままに

牧師になったようなものです。

こんな自分が牧師としての務めを全うできるのかと不安になりました。

劣等感を抱きました。

 

→私が信じる神さまは、どんな神なのでしょうか。

私がどれほど働き、どれほど成果を上げたのかとチェックする神なのでしょうか。

働きが不十分ならそれを責める神なのでしょうか。

 

→私が信じる神は愛の神です。

神さまは、私がどのような人間であるかを十分知った上で、

つまり、私が不十分な者であることを知った上で、

福音を宣べ伝える者に召してくださったと信じました。

大切なことは神に信頼して、忠実に務めに励むことと理解しました。

不十分な自分を受け入れることができました。

足りないところは、神に頼ればよいと知りました。

また空しさを抱えていた私に生き甲斐というか使命感を与えられて感謝でした。

 

→最後に神の約束を知り、神を知ることについての証です。

聖書は先ほど引用したエフェソの教会への手紙です。

もう一度読みます。

 

エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 

→神は、私たちが聖なる者、汚れのない者にしようと私たちを選ばれる方です。

そしてここには、私たちが聖なる者になれるとの神の約束があると受けとめます。

また神は洗礼を受けた者を神の子とし、導いてくださる方です。

 

→私はイエス・キリストを信じ、洗礼を受けて神の子とされました。

神さまは、天の父となってくださいます。

それゆえ、私は父なる神のみ心を大切にします。

神さまを愛し、神さまの御心を大切にします。

それゆえ、神の戒めを喜んで守ることにしました。

神の戒めは、私を祝福するものと信じるからです。

 

→私には人を裁く心がありました。

長老さんとの会話の中で、この人は長老なのに、

なぜこんなことを言うのか、と裁く思いを何度も持ちました。

「人を裁いてはいけない」。これは神の戒めです。

そこで裁く思いがわいてきた時には、裁く代わりに、その人のために

執り成しの祈りをするようにしました。

裁く思いが湧いてきてもいいんです。

その時は執り成しの祈りをするので、裁いたままで終わることはありません。

かくして私は裁く思いから清められつつあります。

 

→私の証をいくつかお話ししました。

私にとって、神の約束を頼みとし、神がいかなる方かを知って神に信頼して生きていくことは幸いなことでした。

またうれしいことでした。

神が共にいてくださることを信じられる歩み、

神と共に歩む信仰の歩みは、恵みに満ちた幸いな歩みであると

私は思っています。

 

→「幸いなのは神の言葉を聞いてそれを守る人である」。

なぜ、幸いなのか。神と共に信仰に歩むことは幸いだからです。

人間は神さまにより創造されました。

神と共に生きる者として造られました。

それゆえ、神と共に歩むことは幸いなのです。