クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

過ぎ去った日々を覚えて~信仰以前

詩編 143:5
私は過ぎ去った日々を思い起こし、
あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、
御手の業に思いを巡らします。
(聖書協会共同訳)

 私は28歳の時に洗礼を受けました。それ以前は、神を知らずに生きてきました。私の脳の記憶容量が少ないせいか、過ぎ去った日々のことの多くを忘れてしまいます。ですから自伝などは書くことはできません。それゆえ、過ぎ去った日のことで覚えていることは自分にとって大切なことです。心に刻まれているようです。

 私にとって二つのことが問題でした。幼い頃に感じた死の恐怖。大学生時代に捕らわれた生きることの空しさです。

 子どもの頃、私は外でよく遊ぶ子どもでした。中学生になると友だちと一緒に蝶々の採集を楽しんでいました。高校に入り、大学受験が視野に入り、勉強するようになりました。大学は一年浪人して希望の大学に入りました。

 大学在学中、1960年代の終わりから1970年にかけて大学紛争が起こりました。学生はストライキを行い、全学、授業はストップしました。学生は3種類に分類されました。それ以前から、学生運動に関わっている人(民青、中核派、革マル派など)。紛争が起きてそれに関わる人、紛争には無関心で関わらない人。私はひとりの人間として、無関心になることはできませんでした。でもクラスで討論会を行う時など、自分の意見もなく、積極的に発言するクラスメートを見て、劣等感を覚えました。大学当局が機動隊を学内に導入するに及び、紛争はおさまりました。

 大学4年の夏休み、クラスメートと二人で尾瀬ヶ原に行きました。大自然の中に身を置いた時、自分の小ささを覚え、生きるって空しい、と心の底から思わされました。

 大学卒業後は、コンピュータのプログラミングの仕事に就きました。ある日同僚と喫茶店でコーヒーを飲みながら雑談をしていましたが、彼も死の恐怖を覚えていることを知りました。死の恐怖を覚えるのは自分の心が弱いからと思っていた私でしたが、自分だけではないのだと分かり、ほっとしました。

 人並みに青春時代を過ごしたと思いますが、私の心には二つの傷、悩みが居座っていました。ある時、「そのためなら死んでも命が惜しくない」と思えることに出会いたいと願うようになりました。会社の仕事に対しては、そのような思いを持つことはありませんでした。

 後に信仰者になって聖書を読んだ時、次の聖句に出会った時は驚いたと同時に、キリスト信仰を得てよかったと思いました。

ペトロ一 1:18~20
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。


ヘブル 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 今振り返ると、私は「死の恐れ」と「空しさ」からの救いを求めていました。

 私がこのような状態になったことが偶然なのか、神の導きなのか、それは分かりません。仮に偶然にそうなったとしても、神さまは、私のことをずっとご覧になっていたことと信じます。またそんな私を信仰へ、さらにはそのためなら死んでも命が惜しくない働き(福音宣教)へと導いてくださったことを思います。少なくとも信仰者になり、福音宣教者に導かれたことは偶然ではなく、神さまの導きと思い巡らします。

ツルボ 近くの里山で