詩編 143:5
私は過ぎ去った日々を思い起こし、
あなたの行ったことを一つ一つ思い返し、
御手の業に思いを巡らします。
(聖書協会共同訳)
牧師としての人生を振り返る時、私は出会った人から学ぶことを繰り返してきました。神さまが出会いを与えてくださり、牧師としての私を成長させてくださったと信じています。出会いというのは自分では選べませんから。
日本基督教団の三重県内の教会の牧師が集う牧師会が定期的に行われていました。私はこれとは別に近隣の教会の牧師たちとの牧師会に参加しました。そこで大きな恵みを得ました。
聖書を学ぶ時、聖書の教えを体系的に提示する神学を学ぶことは大きな益となります。キリスト教の教派によって、聖書解釈の相違、強調点の相違などありますが、教派に属する人は、自分たちの神学を学んで聖書を読みます。私が属する日本基督教団は合同教会なので、異なる教派的伝統をもった教会が集まっています。自覚的に学ばないと中途半端な学びしかできないことになります。近隣の教会の牧師たちとの学びは、有益でした。
私は洗礼を受けて間もなく夜間の神学校で学びました。昼間は仕事をしましたから、神学校で学ぶ以外に聖書を学ぶ時間をとることができませんでした。教会に赴任し、伝道者としての働きを始めた時は未熟者でした。近隣の教会の牧師たちとの牧師会での学びは私にとってとても有益でした。その牧師会では、熊野義孝という神学者の「教義学」を読み、学びました。松阪教会の牧師であった鳥羽和雄牧師は熊野先生を師と仰ぐ方で、学びを指導してくださいました。
むずかしい本でしたが、それなりに要点をつかみ、私なりに神学の基礎ができたのではないかと思っています。その頃熊野義孝全集が発売され、もちろん購入しました。全集のなかには、信徒向けに、分かりやすく教理を教える文章があり、私にとっては役に立ちました。
もしこの牧師会の学びがなかったら私はどんな学びをしていたのかと思うとぞっとします。先輩から学ぶというのは、どの世界にもあることで、よき先輩に巡り会えることはありがたく感謝です。
この牧師会に参加してくださった山田教会の富山光一牧師は年配の方で持病を持っておられました。「御用のあるうちは召されない」と口癖のように話されていたことが忘れられません。持病があるのでいつ召されるかわからないという思いを持っておられたのだと思います。自分への励ましとして、あの口癖の言葉を語っておられたのでしょうか。私も年を重ねました。いつ召されるのかとふと考えます。
鳥羽牧師からは手紙の書き方についても指導を受けました。これも忘れられません。手紙の基本的な書き方ができていなかったのだと思います。よく注意してくださったと思います。
