クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生って何だろう?

 人は生まれていつの日か亡くなる。この歩みを人生という。人の人生って何だろう。人は子孫を残すことにより、人としての務めを果たした、つまり自分の人生を全うしたことになるのだろうか。花を咲かせ、種を残して枯れる草がある。川を遡上して子孫を残し死んでいく魚がいる。

 僕自身は自分の人生をどう考えているのだろうか。自分の人生、いかに生きるべきか。正面からそのような問いを立て、それに答えを出す形で生きては来なかった。ただ若い時、そのためなら死んでも命は惜しくないと思えること、<そのこと>に出会い、<そのこと>のために生きて行きたいと考えた。そして今、人生の夕暮れの中にいる。

 <そのこと>に出会えたと思っている。信仰に導かれ、福音を宣べ伝えるという使命を与えられ、牧師としての働きを続けてきた。死を覚悟するような場面には出会わなかった。でも全力は尽くしてきた。年を重ね、牧師としての働きを隠退した。今は余生を生きていると言うことができる。でも、福音が世界に宣べ伝えられるように祈り続けているという意味では、牧師としての働きを継続しているとも言える。隠退した今、求められて礼拝説教をすることもあり、使命を継続していると言うこともできる。ブログでも福音の証しを少しでもできればと考えている。

 自分の人生とは何であったのか。神からの使命に生きる、それが自分の人生だったのか。子を授かり子孫を残すことができた。それは感謝だ。人生を共に歩む伴侶を与えられ、互いに相手を思いやり、人生を生きてきた。それも感謝だ。<そのこと>に生きることができた。感謝だ。

 僕は野に咲く花が好きだ。基本的に出会った花の名は調べる。野の花は目立つことはない。ひっそり咲いて種を残し枯れていく。神は一つ一つの生き物に名を与えた。僕の人生も似たようなものかも知れない。人々の記憶に残るような働きをしたわけではないし、歴史に名を残すこともない。やがて死に、僕が生きたことはやがて忘れられていく。でも福音宣教に力は尽くした。

 死ぬことは、人生を完成させることだと言う人がいる。命は与えられたものであり、その命を生ききることが人生であり、死をもって人の人生は終わる。与えられた命を生ききる、それは人生の完成であると考えることができる。死を前にして、自分の人生を感謝できれば、よい人生を送ることができたと言えるのかも知れない。

 僕は信仰者なので、神の御心により自分は世に生まれたと信じる。自分が偶然生まれたとは考えたくない。でも自分の死を歓迎することはできない。死を人生の完成と考えて歓迎することはできない。イエスは十字架の上で死なれた。僕はイエスに倣い、死ぬと考えたい。イエスの死には意味があった。でも僕の死にどんな意味があるのか。寿命が尽きての死である。神に召されての死という信仰理解もある。

 神の栄光を現す、それが信仰者人生の目的であると聖書は語っているように思える。どれほどのことができたのかと思う。その答えは自分では分からない。私を知る人が判断することができる。野の花のように、目立たない栄光を現せたかも知れない。僕は野の花を見るのが好きだ。野の花のように、目立たなくてもよい。ささやかでよい。神さまの栄光を現すことができたなら、うれしい。

コリント一 8:6
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

 このパウロの言葉を読むと、神やイエス・キリストが僕の人生で大きな位置を占めているのか、占めてきたのか、自信がなくなる。いやパウロと自分を比較するのはよくない。僕は僕なりに、与えられた賜物に応じて信仰に生きてきた。

 でも人生って何だろう。

奈良公園飛火野