ローマ 1:5~6
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがたもいるのです。
パウロは福音を宣べ伝えました。それはイエス・キリストを信じた異邦人(ユダヤ人でない人々)をイエス・キリストのものにするためとあります。
異邦人キリスト者である私たちは、イエス・キリストのものとなるように召されているというのです。私はイエス・キリストのものとして生きているのでしょうか。そもそもイエス・キリストのものとはどういうことなのでしょうか。
奴隷制が存在していた時代、奴隷は主人のものでした。主人のもの、つまり主人の所有物でした。それゆえ主人に対して絶対的服従を強いられました。それゆえイエス・キリストを信じた者、つまりキリスト者はイエス・キリストに対して絶対的服従を強いられるのでしょうか。それだったらキリストのものになるなんて絶対にいやです。
イエスは次のように語ります。
マタイ 16:24
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
キリストのものになるとは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従うこと、絶対的な服従を意味しているのでしょうか。「キリストのもの」は奴隷制ではなく、別のイメージを考えるとよいと思います。それは羊飼いと羊のイメージです。
詩編23:1~2
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
キリストは羊飼いであり、キリスト者は羊です。キリストという羊飼いに養われることによって羊は幸いなのです。羊は羊飼いなしでは生きていけません。迷子になり、飢え死にするかも知れないし、獣に襲われて死ぬかもしれません。羊は羊飼いなしでは生きていけません。羊は羊飼いのもとで生きていきます。羊飼いと羊の関係、それがキリストとキリスト者の関係なのです。
イエスご自身、自分が羊飼いであると語っておられます。
ヨハネ 10:11
わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。
さらにイエスは語ります。
ヨハネ 10:14
わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。
羊飼いは羊のことを良く知っていてくださいます。羊が迷子になっていなくなれば、見つかるまで探してくださいます。そして羊も羊飼いを知り、羊飼いに信頼します。信仰とは、羊飼いなるキリストに養われることです。羊飼いなるキリストに従うことです。羊飼いと羊の関係性に生きる、それがイエス・キリストを信じると言うことです。
キリストを羊飼いとして生きるように、私たちは召されていると信じます。私はキリストのもの、アーメンです。
