聖書はメッセージを発する書物です。聖書はさまざまなメッセージを発しています。
- 「イエス・キリストはあなたの救い主です」。
- 「あなたは罪を犯しており、イエス・キリストを信じなければ滅びます」。
- 「イエス・キリストはあなたのために十字架で死にました」。
聖書が発するメッセージを要約したものとして、たとえば使徒信条と呼ばれるものがあります。これは教会がイエス・キリストについて何を信じるのかが明確にされています。
聖書が発するメッセージを信じる、これが信仰であると私は理解しています。でもすぐには信じがたいと思えるメッセージもあります。私にとってはキリストの再臨、最後の審判のメッセージは、心から「信じます」とは言えません。私は信仰のない家庭で育った現代人なので、世界に終わりが来ると言われても絵空事に聞こえます。長年教会にいるので、信じる心が少しずつ育ってきてはいますが、心から「信じます」とは言えません。でも「信じません」とは言いません。
「信じます」と告白できない事柄については、信じるとは言えないけど、でもそれは本当のことだと考えて行動するようにしています。そして「信じます」と言える日が来るのを待ちます。
年を重ね老いた今、キリストの再臨、最後の審判などの聖書のメッセージが迫ってきます。これらのことが私を待っているからです。死の向こうにあるからです。これらとどのように向き合うのか、教えられたことがあります。それは「待ち望む」という向き合い方です。私は聖書が語る最後の事柄、キリストの再臨、最後の審判、神の国の実現を「待ち望む」ことにしました。
信じて「待ち望む」のか、聖書が語ることだから本当のことと考えて「待ち望む」のか、それはどちらでもいいのです。「待ち望む」者として生きていきたいと思いました。待ち望む心っていいなと思います。
いつかは知らねど 主イエスの再び
この世に来たもう 日ぞ待たるる
その時聖徒は 死よりよみがえり
われらも栄えの 姿とならん
(新聖歌 465番)
賛美しながら待ち望む心を育てたいと思うこの頃です。
