クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛についての黙想(1) 関係性

 長年信仰生活をして分かってきたことは、信仰とは神との交わりに生きることである、ということです。イスラエルの民はシナイ山の麓で神と契約を結びました。神は彼らの神となり、イスラエルの民は神の民となりました。イスラエルの民にとって生きるとは、神の民として生きることでした。神の民が、神なしに生きる、あるいは別の神を信じるとしたら、彼らは神の民としてのアイデンティティーを失うことになります。神との関係に生きる、それが信仰であると最近は確信しています。

 私たちが生まれた時、親がおり、私たちは子として親子の関係に生きます。兄弟姉妹がいれば、そこには兄弟姉妹という関係があります。結婚すれば自分の伴侶との関係があります。子が与えられれば親として親子の関係に生きることになります。私たちは他者との関係に生きる存在です。信仰に生きる時、私たちは神との関係に生きることになります。

 この関係性に生きることを意識するのはキリスト教の特徴であると考えます。このような関係性に生きる時大切なものは愛です。愛がこの関係性を維持し、豊かにし、喜びをもたらします。しかし愛に欠ければ、その関係性にはひびが入り、その関係性は時には壊れることもあります。

 私たちは祈る時、「父よ」と呼びかけます。具体的な表現は色々あります。私は「天の父なる神さま」と呼びかけます。この呼びかけは私たちが<神の子>であることを意味しています。キリスト者は神と<父と子>の関係の中にあります。この父と子の関係を私たちはあまり意識していないかもしれません。でも<子>だから、さまざまな願いを<父>に祈るわけです。また<子>だから、<父>の教えには従うことになります。

 このような関係性に生きるなら、私たちは神に愛されていることを信じてよいと思います。神がこの関係性へ私たちを招くからです。神は私たちを愛するから、父と子の関係性へ私たちを招きます。子の出来不出来に関係なく、父なる神は子を愛します。神は私を愛しておられるのか、と疑問に思う必要はありません。キリスト者なら神は自分を愛して下さっている、と確信してよいと私は信じます。

三波河冬桜 萬葉植物園