ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。ヨハネ一 4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
二つの聖句は同じことを語っています。この神の愛について思い巡らします。
旧約聖書における契約(古い契約)は神とイスラエルの間で結ばれた契約です。神は、私はあなたがたの神となると約束し、イスラエルの民は、あなたの民となり、あなたの掟を守ると約束しました。神とイスラエルの間には、神とその民という関係があります。イスラエルの民は神との関わり、神との関係に生きる民です。
もしイスラエルの民が神の掟に背くなら、神に不快な思いを与えることになります。神から「私はあなたのことは知らない」と関係の破棄を告げられても仕方がありません。そこでイスラエルの民はいけにえを献げ赦しを求め、神との関係回復を求めます。そのことが律法として定められています。
レビ記 4:2
イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。これは過(あやま)って主の戒めに違反し、禁じられていることをしてそれを一つでも破ったときの規定である。レビ記 4:27~29
一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。
犠牲をささげる儀式は祭司が行います。
レビ記 4:31
奉納者は和解の献げ物から脂肪を切り取ったように、雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。
人間が罪を犯し、神に不愉快な思いを与えたとき、律法は罪を犯した人間の方からいけにえを献げ、神に赦しを求めるように指示しています。そして神が赦しを与えることによって和解がなされ、神と民の関係は回復します。
しかし上に引用した新約聖書の聖句は、神の方から罪の償いのいけにえとしてキリスト(ローマ 5:8)を犠牲にしました。神の方から御子(ヨハネ一4:10)をいけにえとして世に送りました。
ここでは神の方から御子キリストを犠牲にして、罪を犯した私たちに赦しを与えます。赦しを与える方がいけにえを差し出すなんて理屈に合いません。本来なら罪を犯した人間の方からいけにえを差し出し、赦しを求めるのが理屈です。しかし神の方から罪を犯した人間との関係の回復、和解を図るのです。これも理屈に合いません。
しかし、そこには神との関係に生きるようにと招く神の愛が示されています。
私たちの方からいけにえをささげ、私の罪を赦してください、というのではなく、神の方から犠牲をささげ、赦しを受けたらどうですかと言っているかのごとくです。神の方から、神との関係を回復し、神との関わり、交わりに招いてくださいます。神の「招きの愛」が示されます。
夫婦喧嘩をした場合、どちらが先に仲直りのための口火を切るのか。人はプライドがあるので、自分の方から「悪かったね」となかなか言えません。どちらかが「ごめんね」といえば他方も「私(僕)の方こそ、ごめんね」と言って仲直りできます。先にあやまる人は、相手を仲直りへと招いています。
