クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 キリストの再臨を待ち望む

2月8日にG教会で説教奉仕をしました。以下その原稿です。

新約聖書 ルカ福音書 12章35~40節
説教   イエスの再臨を待ち望む

ルカ福音書 12:35~40

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
~~~~~~~~~~

0.はじめに

→私は年をとり、自分の死を意識しながら生きています。
死んだあと、何が私を待っているのかと考えます。
死んで人は眠りにつきます。
この眠りから人が覚めることはないと考える人は、
この眠りを永眠と呼びます。
しかし聖書は、人が眠りから覚める時が来ると語ります。

→聖書は次のように語ります。

テサロニケ一 4:16
大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

→神のラッパが鳴り響くと主が天から来られます。
主御自身天から降ってこられるとあります。
主とは、イエス・キリストのことです。
「キリスト」というのは固有名詞ではなく、「救い主」という意味の言葉です。
イエス・キリストというのは、イエスは救い主ですという信仰の告白の言葉となります。
しかし「イエス・キリスト」といって個人の名前のようにこの言葉を使うことがあります。
→神のラッパが鳴り響くと主が天から来られます。
これを「キリストの再臨」と呼びます。
再臨とは再び来るという意味です。
二千年前この世界に来られたイエスが、救い主キリストとして
今一度この世界に来られるのです。
その時、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活します。
キリストに結ばれた人、つまりクリスチャンが復活するというのです。
死の眠りから目覚めるのです。
キリスト者は死んで眠りに就きますが、キリストが再臨される時復活します。
キリストの再臨を待ち望む信仰について
聖書に聞きたいと思います。

1.今日の聖書テキスト

→今日の説教テキストは<キリストの再臨>のたとえです。
たとえの中で主人が婚宴に出かけます。
しもべたちは、戸締まりをします。
泥棒に入られないためです。
主人が帰って来て戸をたたいたとき、
目を覚ましていてすぐに戸を開けることのできるしもべは幸いだと教えられます。
主人を待たせるわけにはいきません。
目を覚ましているとは、主人がいつ帰ってきてもいいように備えをしておくことです。
主人が夜中に帰ってきても、あるいは夜明けに帰ってきても、
すぐに扉を開ける用意のできているしもべは幸いだと繰り返されます。
そして40節。人の子は思いがけないときに来るとあります。
「人の子」とはイエスが時々自分のことを指して言う言葉です。
イエスは十字架で死に、復活し天に上げられます。
この世界から去りますが、思いがけないときにこの世界においでになります。
これをキリストの再臨と呼び、
このキリストの再臨に備えることの大切さが教えられます。
今日の説教では、キリストの再臨を待ち望むことをまず、聖書から教えられたいと思います。

2.救い主の働き

→イエス・キリストは救い主です。
救い主の働きとは何でしょうか。
それは罪から人を救うという働きです。
聖書によれば、神は人間を神に似せて造られました。
人間は神の御心に従って生きる者とされました。
神の御心に従うことが人間に祝福をもたらします。

→罪とは何でしょうか。
神を信じないこと、神に逆らうことが罪です。
この世界では、法律を破ることを罪と呼びますが、
救い主が問題にする罪は別物です。
神を信じないことが罪というと変に思われるかもしれません。
神を信じない人は、神に逆らう歩みをしています。
つまり罪を犯しているのです。
でも自分が罪を犯しているとは考えていません。
神を信じていないから罪を犯しているのです。
人間は誰もが罪を犯していると聖書は告げます。

→人が自分中心に生きること、自分を第一にして生きること、
これが罪となります。
しかも他者に対して無関心になります。
この結果、人と人との間に亀裂が生じます。対立が生まれ、争いが生まれ、憎しみが生まれ、人は傷つけ合って生きています。
このような争い、対立は国家のレベルにまで広がっていきます。
戦争は人間の罪がもたらすものです。
戦争により、多くの人が不幸になるのは周知の事実です。
罪の結果、この世界に悲しみ、苦しみ、憎しみが満ちあふれます。
人類はこの歴史の中で戦争を解決できていません。
それは罪を解決しない限り、解決できません。

→神の御心に人が従う時、そこには愛があり、平和が生まれます。
罪から人間を救い、救われた人間が愛に生きるように導く、
それが救い主の働きです。

→今から二千年前、イエスが救い主としてこの世に生まれ、救い主としての働きをしました。
そしてイエスがキリストとして再臨される時、人間の救いが完成します。

3.救い主の一回目の到来

→二千年前、イエスがこの世に来られたこと、
これが救い主の一回目の到来です。
マリアという女性がイエスを生みました。
イエスは救い主としてこの世に誕生しました。
しかしイエスの到来、救い主の到来を知る人はわずかでした。
少数の羊飼いと東方の博士たちだけでした。
だれにも知られることなく、救い主イエスはおいでになりました。

→イエスはまことの神がおられることを示し、
この神に立ち帰るように人々に勧めました。
まことの神に立ち帰ることを悔い改めと言います。
自分第一に、自己中心に生きる生き方を改め、神を信じ、神の御心に従うように生き方を転換するのです。
それを悔い改めと言います。

→人々を悔い改めに導くためにイエスは二つのことを行いました。
ひとつは病気で苦しむ人、悪霊に憑かれて苦しんでいる人たちを癒やしたことです。
まことの神がおり、イエスを通して、その神が病気を癒やし、悪霊追い出したことを示したのです。
さらには人はいかに生きるべきかを人々に教えました。
人々はイエスの教えに権威があることに驚きました。
多くの人たちがイエスの後について行き、その御業を見て、その教えに耳を傾けました。
そして人々はイエスが救い主ではないかとの期待を抱くようになりました。

→イエスの時代、イスラエルはローマ帝国の支配下にありました。
イスラエルの国は紀元前6世紀に滅び、その後、ペルシャ、ギリシャ、シリア、そしてローマ帝国に支配されてきました。
ですから人々は、イエスがローマの支配から自分たちを解放してくれる救い主であることを期待しました。
しかしイエスはその期待に応えることはありませんでした。
イエスは人々を罪から救うメシア、救い主だったからです。

→そのイエスが、十字架で死んでしまうという出来事が起きます。
イエスは当時の宗教指導者と対立し、
宗教指導者たちを偽善者と批判しました。
宗教指導者たちの憎しみを買い、
彼らの策略によって殺されてしまいました。
自分たちは神の前に絶対正しいと信じていた高慢な宗教指導者たち。
イエスの批判を受け入れない高慢な罪がイエスを死に追いやりました。
イエスに罪がないことを知っているのに、
自己保身のためにイエスに死刑を言い渡したローマ総督の罪。
人間の罪がイエスを死に追いやりました。
イエスは十字架で犯罪者として処刑されました。
そしてイエスの弟子たちさえも、イエスが捕らえられたとき、
イエスを見捨てて逃げてしまいました。
イエスは救い主キリストとして世に来られたのに、
イエスが救い主であると信じた人はいませんでした。

→しかし、神はこのイエスを十字架の死から復活させました。
イエスを死者の中から復活させたのです。
復活したイエスに出会った弟子たちは、
イエスが救い主であることを悟ります。
神の導きによって確信を持ってイエスが救い主であると信じます。
そしてイエスを救い主と宣べ伝える働きを始めます。
各地に教会ででき、教会は今もなおイエスを宣べ伝えています。
イエスがキリストであることを信じる人たちが地上に多くいますが、
イエスを信じない人、信じようとしない人たちも多くいます。
教会は、キリストの再臨を今も宣べ伝えています。

4.救い主の二回目の到来

→救い主の二回目の到来はキリストの再臨と呼ばれています。
救い主としてこの世界にやってきたイエス。
イエスは十字架で死にましたが復活し天に昇られました。
イエスが救い主であることは人間の眼には隠されていましたが、
死者より復活し、天に上げられ、文字通り救い主キリストとなりました。
そしてキリストはこの世界にもう一度おいでになります。
二回目の到来、再臨です。

→キリストが栄光に輝いて再臨することは、
聖書から知ることができます。
ルカ福音書21章25~27節にこうあります。

「それから、太陽と月と星に徴が現れる。
地上では海がどよめき荒れ狂うので、
諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、
恐ろしさのあまり気を失うだろう。
天体が揺り動かされるからである。
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。

→あるいはマタイ福音書25章31節にはこうあります。

マタイ 25:31
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

→キリストは栄光に輝いてこの世界に来られます。
栄光に輝いているとはどういうことでしょうか。
誰の目にもその輝きが見えるということです。
再臨したキリストが救い主であることが誰の目にも明らかなのです。
栄光のキリストは人々の前に自分を現したのです。
すべての人が栄光のキリストを見て、
キリストが救い主であることを知るのです。
十字架で死んだイエスは、本当に救い主だったと
すべての人が知るのです。
キリストが再臨した時、
地上にいるすべての人がこの栄光に輝くキリストが救い主であることを知るのです。
神がイエスを送ったことは、人類を罪から救うためであったことがすべての人に明らかになるのです。

→それゆえ次のようなことが起きるのです。

ヨハネ黙示録 1:7
見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

→キリストが再臨する時、すべての人が彼を仰ぎ見るのです。
その時、イエスを突き刺した者たちは、自分たちがメシアを殺したことに気づき、その罪に嘆き悲しむというのです。
イエスを死に追いやった時は、正しいことをしたと思っていたのです。
でも栄光のキリストの再臨は、それが間違っていたことを示します。
救い主を死に追いやったことに対してどのような罰を受けるのか、恐れおののくのです。
このように再臨のキリストは、イエスが救い主であり、
今、栄光に輝く姿でおいでになったことが明らかになるのです。

→イエスがこの世界に来られた時、誰もそのことを知りませんでした。
少数の羊飼いと東方の博士たちだけでした。
イエスは十字架で死にましたが、
イエスが救い主であることを知る人は一人もいませんでした。
しかし今や、イエスが栄光のキリストとしておいでになったのです。

5.栄光のキリストの働き

→再臨のキリストは、まことの神がおり、この神は人間の罪を裁くお方であることを示します。
再臨のキリストは神から裁く権威を与えられて人を裁きます。
キリストが裁くことについて語る聖書箇所で、よく知られているのはマタイ福音書の25章です。

マタイ25:31~34
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、
羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
羊を右に、山羊を左に置く。
そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

→右側の羊は神の国に迎えられ、左側のヤギは、永遠の火に入れられます。
あるいは、裁きについて、次のような聖書箇所もあります。

ヨハネ12:48~49
わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者に対しては、裁くものがある。わたしの語った言葉が、終わりの日にその者を裁く。
なぜなら、わたしは自分勝手に語ったのではなく、わたしをお遣わしになった父が、わたしの言うべきこと、語るべきことをお命じになったからである。

→イエスを信じることを拒み、イエスの言葉を受け入れない人は、なぜイエスの言葉を信じなかったのかと、イエスの言葉によって裁かれるというのです。
イエスは神から語るべきことを教えられているので、
イエスの言葉を受け入れないことは、
神を受け入れないこと、神を信じないことになります。

→あるいは単に裁きがあることを告げる聖句もあります。

ヘブル9:27
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

→この聖句には続きがあって、うれしい内容になっています。

ヘブル 9:28
キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです

→キリストは御自分を待ち望んでいる人たちに救いをもたらします。
再臨のキリストの裁きによって、人間の最終的な運命が決定されることになります。

6.キリストの再臨に伴いもたらされる救い

→栄光のキリストの再臨と共に始まる出来事があります。
最終的な救いの完成です。

テサロニケ一4:13~14
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、
希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、
ぜひ次のことを知っておいてほしい。
イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。
神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、
イエスと一緒に導き出してくださいます。
→神はイエスを死者の中から導きだし復活させたように、
死の眠りについたキリスト者を復活させてくださいます。

→イエスが十字架で死に、3日目に復活されたように、キリスト者も復活するのです。
そのキリスト者は体を持ちます。体があるゆえに眼もあり、見ることができます。
栄光に輝くキリストを見ることができます。
復活したキリスト者に体については次のように聖書に書かれています。

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

→キリスト者は復活し、栄光ある体を持つというのです。さらにつぎのような聖句もあります。

コリント一 15:51~52
わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

→キリスト者は朽ちない者にされるというのです。
キリスト者は、イエス・キリストによって死に対する勝利を与えられるのです。
キリスト者は、神の国に迎えられるのにふさわしい者とされ、
神の国に迎えられることになります。

7.キリストの再臨を待ち望む

→キリストが天に帰られてから2000年以上過ぎており、
キリストの再臨は本当にあるのか、という疑問を私たちが持っても不思議ではありません。

→現代の多くの人が神を信じませんし、信仰を持とうとしません。
そんな現代に生きる私たちがキリスト者になったのですから、
聖書が教えているからといって、キリストの再臨をすぐに信じることはむずかしいかも知れません。
だから、皆さんに一つ覚えていただきたいことがあります。
信仰とは何か、ということです。

ヘブル11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。
昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。

→信仰とは望んでいる事柄を確信することだとあります。
今すぐ確信は持てなくても、
望んでいる事柄、今回の場合は「キリストの再臨を信じる」と言うことですが、
キリストの再臨を待ち望む者になりたいとの願いをもって歩みたいと思うのです。
キリストの再臨を待ち望む者として生きていきたいと思うのです。

→最初に申し上げましたが、私は自分が死んだ後
何が待っているのかと考えました。
それはキリストの再臨です。
だから私はキリストの再臨を信じたいと思います。
キリストの再臨を待ち望む信仰に立ちたいと願っています。

→最後に
栄光に輝くキリストを仰ぎ見ることができることは
何と素晴らしいことではないでしょうか。
栄光のキリストを仰ぎ見ることにまさる喜びがあるのでしょうか。
私たち自身が復活し朽ちない者にされますが、
その姿がどんなものかを見ることができる、
これも素敵なこと、祝福に満ちたことではないでしょうか。
ここに私たちキリスト者の人生の完成、
人生のゴールがあると私は信じます。