ヨハネ一 4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
御子が罪を償ういけにえとなりました。御子といういけにえにはどれほどの価値があるのでしょうか。
旧約聖書を読むと、イスラエルの民は罪を犯した場合、罪の赦しを得るために神にいけにえを献げました。罪を犯した人はいけにえとなる動物を祭司のもとにもっていきます。それをいけにえとして神にささげる儀式は祭司が執り行いました。罪を犯したらいけにえを献げることによって罪の赦しを得ることができ、神との関係が回復されます。罪を犯したのにいけにえを献げなければ赦しを受けることができず、神の顧みを受けることができない者となってしまう可能性があります。信仰者と神との関係にひびが入るのです。
神はその独り子を世に遣わしました。イエスです。そのイエスは十字架の上で、罪に対するいけにえとして死んだと聖書は告げます。なぜ神は御子をいけにえにされたのかと考えます。
通常、いけにえは罪を犯した者が神に献げます。しかし神の方からいけにえを献げるのは理屈としてはおかしいです。神の方からいけにえを献げたのには理由があります。そこには神から赦しを受け、神との交わりに生きるようにとの神の招きがあります。御子がいけにえとされたということは、罪の赦しを求める人がどんなに沢山いたとしても、罪の赦しを受けることができることを意味します。また人は罪の赦しを得るためのいけにえを献げる必要のないことを意味します。
仮に、もし罪を犯した人が赦しを受けるためには5万円に相当する動物のいけにえが必要だとします。10人の人が罪の赦しを受けるには、50万円に相当する動物のいけにえが必要となります。一億人の人が罪の赦しを受けるためには、5兆円に相当するいけにえが必要となります。
愛の神は正しい神でもあるので、罪を赦すためにはいけにえが献げられる必要があります。愛の神なら「赦す」と言えばそれですむかも知れませんが、神は正しい神でもあるので、赦しのためにはいけにえは必要です。
この世界の歴史で何人の人が生まれ死んでいくのか分かりませんが、どんなに沢山の数え切れない人が罪の赦しを受けるために必要な金額は御子の価値より小さいのです。御子といういけにえが献げられたからには、数え切れない人の罪の償いをなすことができるということです。御子を犠牲にする神の愛は、途方もなく大きな愛です。御子を犠牲にするということは、無数の人間の罪を赦す用意が神にあることを示しています。
それゆえ、どんな人も、イエスが自分のために罪の償いのいけにえになってくださったと信じるのなら、罪の赦しを受けることができます。赦しを求めるなら、だれもが赦しを受けることができるのであり、いけにえが必要だよと拒まれる人はいません。神の愛は、赦しを求める人すべてを赦す愛です。赦しを求める人を神の愛は拒みません。御子を犠牲にして人を救おうとする神の愛は、無限に大きい愛と言ってよいと思います。
