ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
パウロは「神はわたしたちに対する愛を示されました」と書きます。神はパウロに愛を示されました。パウロはその神の愛をどのように感じたのかと想像します。パウロはクリスチャンを迫害していました。そんな彼に神は出会ってくれたのです。
パウロの書いた手紙には、「罪の赦し」という言葉が出てきません。パウロが実際に書いたとされる手紙(ローマ、コリント一、二、ガラテヤ、フィリピ、テサロニケ一、フィレモン)には出てきません。パウロにとって救いとは、「罪の赦し」よりも「義とされること」のほうが適切な表現なのだと思います。
ちなみにペトロは聖霊降臨日に説教しました。
使徒言行録 2:38
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
ペトロは罪の赦しを受けるために洗礼を受けなさいと教えました。しかしパウロの考えは違うのです。
ガラテヤ 2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。
パウロは罪の赦しを受けようとしたのではなく、義とされることを求めてキリストを信じたとあります。パウロにとって義とされることが、救いなのです。
ローマ 3:21~22
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
コリント二 5:21
罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。
フィリピ 3:8~9
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
パウロは、自分は神の前に「義とされた者」というアイデンティティーを与えられたことに神の愛を感じたのではないかと想像します。義とされることには罪の赦しも含まれていると思いますが、パウロにとっては、救いの概念としては、「義とされている」ことが適切だったのではないかと思います。
