ルカ 15:17~20
そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
ある人に二人の息子がいました。弟の方が父親に「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言います。すると父親は財産を二人に分けてやります。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまいました。彼は豚の世話をするというアルバイトをしましたが、飢えは満たされず、彼は我に返ります。そして家に帰る決心をします。彼の決心した内容が上に引用した聖句です。
この父親は、息子の願いを聞いて、財産を分けてあげました。財産を無駄遣いするだろうと予測はできましたが、息子の言い分を聞き入れました。彼の意志を尊重したのです。案の定、息子は行き詰まり、家に父の元に戻ってきます。何とこの父親は、息子の姿が遠くに見えるや駆け寄って彼を抱きしめるのです。
息子が「お父さん、私はお父さんに対して罪を犯しました。息子と呼ばれる資格がありません」と言うのを聞くや、この父親は僕たちに命じて息子の帰還を喜ぶ祝宴の用意をさせます。
この父親は息子に譲り渡した財産をどうしたのか、ひと言も聞きません。帰ってきた息子の姿を見れば、財産は全部失ったことは明らかです。そのことについて説明も求めません。弟息子が悔いていると察しているのです。父親はみじめな姿をしている息子を憐れに思うのです。
この父親は、息子が帰ってくることを予測し、帰ってくる息子の姿が見えないか、遠くを見ることを習慣としていたようです。息子が帰ってくるのを待ち遠しく思っていました。彼が戻ってくれさえすれば、それでうれしいのです、この父親は。息子を無条件で愛しています。そして息子が、何をしてきたのか知ろうともせず、息子を歓迎し祝宴を開きます。
この父親は無条件で息子を愛しています。自分にふさわしい子なのかどうか、そんな目で息子を見ません。よく帰ってきたね、と喜び、その気持ちを表すべく、祝宴を開きます。私の、そして私たちの常識を越えた父親の姿があります。息子が父親の元に戻ってくることを喜ぶ父の姿、それが神であるとイエスはファリサイ派や律法学者たちに語りました。
ファリサイ派や律法学者たちは神の教えに従わない人たちを罪人と決めつけ、関わることを拒みました。関われば自分が汚れると考え、汚らわしい者とは付き合わないと考えています。自分は神に愛されるにふさわしい人間であると考える人がいるかもしれませんが、愛されるのに全くふさわしくないような人さえ、神は愛されることをイエスは教えています。誰であろうと、その人が神のもとに来ることを神は喜ばれるのです。
自分がどんなにダメな人間でもなお神は私のことを愛してくださり、神と共に生きるよう励ましてくれます。神は神のもとに帰ってくる人間を大きな愛で包んでくださる神。このようにイエスは神がいかなる方かを教えてくれます。
ルカ15:7
悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。
