井戸の中にいる蛙(カワズ、カエル)は外の世界を知らないという諺です。井戸の中の狭い世界、それだけが世界だと思っていると、井戸の外には大きな世界があるというのです。狭い世界の中で何でも知っていると思っていると本当は何も知らないのに等しいという諺です。
自分はこの井戸の中のカエルではないかとふと思わされました。老人となった私は、死を意識し、キリスト者としての死後の希望を抱いています。先日イースタの礼拝を献げ、キリスト者には復活の希望のあることを教えられます。
イエスはマルタに語ります。
ヨハネ 11:25~26
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
もしイエスが私に「私を信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」と尋ねられたら、私は困ります。100%信じるとは言えないからです。悪魔は私に向かって疑いの火の矢を放ちます。私はそれを信仰の盾で防ぎます。
エフェソ 6:16
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
火の矢を信仰の盾で防ぐことができても、飛んでくる火の矢は見えるのです。火の矢が飛んでこないようにすることはできません。そこで私は思うのです。これを信じて大丈夫だという絶対的な確信がほしいと。
しかし太陽に向かって歩けば、後ろに影ができるように、信仰には疑いがつきものであり、疑う思いがあるけど、なお信じる方を私は選ぶという思いで私は生きてきました。でもそうすると結局、「信じるしかない」という言葉が出てくるのです。これを越えて絶対的な確信がほしいと考える私は聖書を読み、聖書が語る真理は、神から来る真理であると確信できたらいいなと思って聖書を読んでいます。そんな私に、ふとある思いが湧いてきました。「井の中の蛙、大海を知らず」。
井戸の中のカエルは、外の大海、外の世界を知ることはできません。井戸の中にいる限り外の世界を知ることはできません。外の世界を知ることができない、そのような限界の中にカエルはいるのです。私はこの世界に生きています。この世界は、井戸なのです。井戸の外の大海、それは神がおられる世界です。神は井戸の外から、井戸の中に対して石を投げることができ、この世界に働きかけることができます。私たちに見えるのは出来事であり、それがなぜ起きたのかは分かりません。この世界に起きる出来事の多くは人間が起こすもの、あるいは自然現象です。神はこの世界に働きかけます。イエスをこの世界に送り、人間を救おうとされます。身の回りに起きるある出来事について、神の導きと私は信仰者として受けとめ感謝することもあります。
私はこの世界という井戸の中にいて、外の大海、神の世界を見ることはできません。外の世界、それを聖書は「天」と呼び、私が生きる世界を聖書は「地」と呼んでいます。絶対的な確信を持つことを願うのは、「天」を見ることと考えます。それを願うことは思い上がりであり、高慢なのだと思いました。井戸の中のカエルは外の大海を知ることはできないのです。それは人間としての限界です。知ることのできないものを知ろうとするのは、思い上がりです。悔い改めなければなりません。
神よ、私の思い上がりを赦してください。
