マタイ 16:15
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。
私は信仰生活を長く続けてきました。もしイエスが私に「わたしを何者だと言うのか」と尋ねられたら、私は何と答えるのかと思いました。
ヨハネ 11:25
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である」。
聖書は十字架の死からのイエスの復活を語ります。復活は歴史的な出来事です。極楽とか浄土は人間が考え出したものです。しかしイエスの復活はそれを目撃した人がいる出来事です。洗礼を受けるとき、私はイエスを信じ、死を越える生のあることを信じました。このヨハネの言葉には続きがあります。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。
イエスは「信じるか」と問うたのです。イエスに問われたマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えています。「信じるか」という問いに対しては直接的に答えていません。
「信じるか」と問われたら私はどう答えるかです。若かったときは「信じます」と答えました。しかし老いの中にあって、自分の死を意識するようになって、少し変わりました。私の心には、信じる思いと「本当なのかな」という思いが同居しています。
そこで思い出すのがアブラハムです。彼は神から約束を与えられました。
創世記 12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように
アブラハムは神の言葉、神の約束を信じて、神が示す地に向かって出発しました。しかし何年か過ぎるうちに彼の心に変化が現れました。そして神が彼に語りかけます。
創世記 15:1
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。
神がなぜ、このように語ったのか、それはアブラハムが約束の実現に疑問を感じていたからだと思います。神の言葉に対してアブラハムは答えます。
創世記 15:2
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。
アブラハムは子を授からないから、自分の家をエリエゼルが継ぐと答えました。アブラハムは子を授かるとは思っていません。そこで神は言います。
創世記 15:5
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる」。創世記 15:6
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
するとアブラハムは主を信じたとあります。その信仰に対して、主はそれを神の義と認めたとあります。神は私に「聖書には神の国の希望を語る言葉が色々書かれているではないか」と言うかも知れません。私はそれらの言葉を承知しています。でもあの「本当なのかな」という思いは心の中に同居しています。
そこで私はイエスを信じているので、死んでも生きる、と考えることにしています。このように考えることについては、心の底から迷いなしに考えることができます。「本当なのかな」という思いを気にしないですみます。
主イエスよ、あなたは復活であり、命です。私は「死んでも生きる」と考えて信仰に歩みます。
