クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 恵みを求めて生きる

一昨日説教奉仕をいたしました。

以下、説教原稿です。

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旧約聖書 詩編34編9~11節

新約聖書 マタイ福音書20章1~16節

説教 恵みを求めて生きる

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1.たとえで語られていること

 

→今日の聖書は、天の国のたとえとしてイエスが語られものです。

ぶどう園の主人が収穫のために労働者を雇い、賃金を支払ったという内容です。

ぶどう園の主人は色々な時間に労働者を雇いました。

まず主人は夜明けに出かけていき、何人か労働者を雇いました。

朝早く雇われた人は、賃金として一デナリオンが約束されました。

一デナリオンは、当時一日の労働賃金とみなされる額でした。

 

→朝9時に主人は広場に行き、何もしないで立っている人を見て、

「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言います。

何人かの人たちが雇われてぶどう園で働きました。

 

→その後主人は、12時と3時にも広場に行き、何人かの人を雇いました。

さらに5時にも広場に立っている人々を見ました。

「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と聞くと

「誰も雇ってくれないのです」と答えました。

そこで主人は彼らをも雇いました。

→夕方の6時になり、主人は雇った人に賃金を支払います。

5時に雇われた人に主人は一デナリオンの賃金を支払いました。

一時間しか働いていないのに、一日分の賃金、一デナリオンを支払ったのです。

朝早く雇われた人たちがこれを見て、

自分たちはもっと多くもらえるだろうと思ったのも当然です。

そして彼らの番がきて賃金が支払われました。

彼らが受け取ったのは一デナリオンです。

「え、一デナリオン」と彼らは驚きました。

何故なら、5時に雇われて一時間しか働かない人が

一デナリオンの賃金をもらったのです。

朝早く働いた自分たちは、もっと多くもらえると思ったのです。

そこで主人に不平を言います。

 

マタイ 20:12

『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

 

→すると主人は言います。

 

マタイ 20:13

主人はその一人に答えた。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい」。

 

→確かに朝、一デナリオンの賃金で働く約束をしました。

主人は約束を果たしたのです。

これ以上、主人に文句を言うことはできません。

主人はさらに言うのです。

 

マタイ 20:14

わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

 

→主人は、5時からの労働者にもあなたと同じように一デナリオン支払ってやりたいのだと言います。

朝早くから働いている人から見れば、主人はえこひいきしているように見えます。

主人はさらに言います。

 

マタイ 20:15

自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。

 

→主人が自分のしたいようにすることについては、文句を言うことはできません。

しかし、朝早くから働いている人からすれば、納得はできません。

労働者を雇う人が気まぐれに賃金を支払うようなことをしていいのかという問題が残ります。

主人は言います。「わたしの気前のよさをねたむのか」。

これに対して、朝早くから働いた人は何も言いません。

ねたむというより、主人の不公平さ、気まぐれ、えこひいきに対して怒りを覚えていると思います。

以上がたとえの内容です。

 

2.たとえの分析

 

→ここで主人の態度に注目します。

主人は朝早く雇った人に対して一デナリオンの賃金を支払うと約束して支払いました。

約束通りのことをしており、問題はありません。

労働に見合う賃金を支払っています。

この世においては、賃金は労働に見合うものであるべきだ、というルールがあります。

日本でも、一時間の労働に対する最低賃金というものが定められています。

人を雇う場合、少なくとも最低賃金以上の賃金を支払うことが約束されます。

ぶどう園の主人は、朝から働いた人にこのルールに基づいて賃金を支払いました。

 

→主人は、5時から雇った人には、このルールに従いませんでした。

ルールに従うなら、一デナリオンの1/8あるいは1/12位の賃金になります。

つまりこの場合、賃金は労働に見合うものというルールが成り立っていません。

5時からの労働者にも一日分の賃金を支払ってやりたいとの主人の思いが働いています。

5時からの労働者は一日中広場に立っていましたが、誰も雇ってくれませんでした。

その理由は分かりませんが、気の毒です。

一日中、広場にいて雇ってくれる人を求めていたのに、雇ってもらえなかったのです。

ぶどう園の主人は彼を気の毒に思い、一デナリオンの賃金を与えました。

ここには主人の憐れみ、好意、親切があります。

5時からの労働者からすれば、一デナリオンの賃金は、恵みと言えます。

彼は一デナリオンに相当する働きをしていません。

ぶどう園の主人の憐れみ、好意、恵みを彼は得たのです。

5時からの労働者の賃金は、恵みとして与えられました。

 

→このたとえには賃金を得る二つのルールが描かれています。

第一は、労働に見合う賃金が支払われるというルール。

第二は、恵みとして賃金が支払われるというルール。

 

3.天国のたとえ

 

→このぶどう園の労働者のたとえの直前には、金持ちの青年が登場します。

マタイ福音書19章16節以下。

彼はイエスに「永遠の命を得るにはどんな善いわざをしたら良いのでしょうか」と尋ねています。

イエスは、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」と十戒を守りなさいと答えます。それに加えて「隣人を自分のように愛しなさい」と告げます。

するとこの青年は、「そういうことは守ってきました」と答えます。

続けて「まだ何か欠けているのでしょうか」と尋ねます。

 

→するとイエスは、自分の持ち物を売り払い、貧しい人に施し、私に従いなさいと答えます。

金持ちの青年は、自分の持ち物を売り払い、貧しい人に施すことはできませんでした。

このことは人間の行いによって永遠の命を得ることができないことを示しています。

するとその青年は悲しみながら立ち去ったとあります。

彼は永遠の命を諦めました。

 

→永遠の命は神が与えて下さるもの、神の賜物です。

神の賜物は、人間が善い業をした見返りとして受け取ることができるものなのでしょうか。

イエスが金持ちの青年に語ったことは、善い業を行って永遠の命を得ることはできないことを示しています。

永遠の命は人間の働きによっては得ることができないのです。

では手に入れることができないのでしょうか。

神にはできるのです。

つまり神は恵みとして永遠の命を人に与えることができるのです。

神が恵みとして与えるのを人は受け取ることができるのです。

ヨハネ福音書の3章16節にこう書かれています。

 

ヨハネ 3:16

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

→人は独り子を信じることによって永遠の命を得ることができます。

永遠の命は神の賜物であり、恵みによって与えられるものです。

 

→ここでぶどう園の労働者のたとえに戻ります。

ぶどう園の主人は労働者に賃金を支払うとき、

最初に払ったのは誰だったでしょうか。最後に雇われた人です。

ぶどう園の主人が5時からの同労者に賃金を支払いました。

その賃金は恵みです。

ぶどう園の主人は、5時からの労働者に恵みとして賃金を与えました。

このたとえの中心は、ここにあります。

神の賜物は恵み、このことが強調されています。

このたとえは天の国のたとえです。

天の国のたとえといっても私たちが死んだ後に行く天国の話しではありません。

このたとえは今、信仰に生きる私たちのためのたとえです。

天の国は神さまが御支配なさる場所です。

そして私たちキリスト者は、神さまのご支配の中を生きています。

その私たちに適用されるのが天の国のたとえです。

天の国では、神の賜物は、恵みとして与えられるのです。

私たちは、恵みとして神の賜物を受け取ります。

このことを今日のたとえは強調しています。

 

4.問題提起

 

→話は変わりますが、聖書には最後の審判の教えがあります。

礼拝でいつも告白する使徒信条にも最後の審判のことが告白されます。

「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」。

皆さんは、最後の審判で自分はどのように裁かれると思いますか。

救いに導かれるのか、それとも滅びの方に追いやられるのか。

救いに導かれると考えるなら、その根拠は何でしょうか。

 

→ある人は言うかも知れません。

私はイエス・キリストを信じています。

イエス・キリストを信じる人は義とされると聖書にあります。

私は神さまの前に義とされているので救いに入れられると信じます」と。

 

→しかし聖書を読むと、最後の審判の裁きの基準は信仰の有無ではなく、その人がいかに生きたかにあるようです。

 

→たとえばマタイ福音書25章には、イエスが天使たちを従えて天から降ってこられること、そしてすべての民を自分の前に集めて裁きを行うことが教えられています。

 

マタイ 25:31~33

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、

羊を右に、山羊を左に置く」。

 

→そしてイエスは言います。

 

25:34~36

『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

→すると祝福された人たちがイエスに言います。

「いつ、あなたにこのようなことをしたのでしょうか」。

これに対してイエスは答えます。

 

25:40 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。

 

→この時の裁きの基準は、小さな者に親切にしたかどうか、です。

小さな者、つまり人からは相手にされないような人に対して親切にしたか否かが裁きの基準になっています。

 

→パウロの手紙のコリントの信徒への手紙二5章にはこう書かれています。

 

コリント二 5:10

なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 

→最後の裁きでは、私たちは自分の行いによって裁かれるというのです。

どう思いますか。

信じる者は救われると私たちは聞いてきました。

信仰によって救われると聞いてきたのに、

行いによって裁かれるとなると混乱してきます。

 

→頑張って神さまの教えを守る努力をしなければいけないのでしょうか。

あるいはイエスを信じますと言って洗礼を受ければ、最後の審判で必ず救われるのでしょうか。

 

→そこで恵みと信仰者の努力について考えたいと思います。

 

5.救いに向かって

 

→信仰者は救われるためには努力が必要だと私は思います。

問題はどんな努力をするか、です。

 

→キリスト者は、自分の力、自分の努力を神に認めてもらって救われようとする努力はしません。

「あなたはよく私の教えを守った。あなたを救いに入れてあげよう」と神から言ってもらえるほどに

神の教えを守り、神の前に正しい人になることは私たちにはできません。

しかし、神さまは、イエス・キリストを信じる人を恵みによって神の前に正しい人と認めてくださいます。

神の前に正しい者として認められるのは神の賜物、恵みです。

自分の努力で獲得するものではありません。

聖書には、信仰によって義とされるという教えがあります。

 

ローマ3:22

すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 

→イエス・キリストを信じる人は神の義が与えられるとあります。

言い換えると、イエス・キリストを信じる人は、神の前に、神の目に正しい人だというのです。

信じることによって与えられるので、これは神の賜物であり、恵みです。

ここには罪の赦しも含まれていると考えます。

 

→神の賜物として、恵みとして、私たちは神の前に、正しい者とされました。

これで私たちは最後の審判での救いが確実になったのでしょうか。

もし確実になったとするなら、

イエス・キリストを信じ、洗礼を受けた人で教会に来なくなった人も救われるのでしょうか。

それは私には分かりません。

だれが救われるのか、それを決めるのは神ご自身です。

 

→イエス・キリストを信じ義とされた私たちは、

義とされたので、最後の審判の時は救われるという約束を与えられていると私は理解します。

「わたしはあなたを義とした。これは終わりの日の裁きで、あなたを救うという約束である」と神が言ってくださると理解します。

そして神の約束は黙って何もしないで待っていても実現するとは限りません。

むしろ約束の実現のために行動が必要です。

 

→たとえばアブラハムは、神さまから、あなたの子孫を大いなる国民にすると約束を受けました。

 

創世記12:1~2

主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。

 

→神さまは、アブラハムに私の示すところに行きなさいと命じました。

この命令に従うことが約束の実現のために必要なこととなります。

そこでアブラハムは、住み慣れた場所を離れ、神の示す場所を目指しました。

 

→エジプトで奴隷になっていたイスラエルの民が神に助けを求めました。

その時神は、イスラエルの民を奴隷状態から解放し、自由に生きる土地へ導くと約束しました。

まず、神は彼らを奴隷状態から解放しました。

イスラエルの民はエジプトを離れ、自由に生きる土地に向かって荒野を旅します。

荒野でイスラエルの民は困難に直面しました。

この時、なんでこんな目に遭うんだと不満を言った人たちがいます。

神はその困難から彼らを救いました。

また困難が起きます。

するとまたイスラエルの民の多くは不満を言います。

 

→このように不満を言う人は、

自由な地に連れて行くという約束の実現を受け取る資格があるのでしょうか。

困難に陥ったら、神は約束を実現すると信じて、神の助けを求めるのが信仰に生きることだと思います。

神の約束を与えられたら、その約束の実現を期待する者として、

ふさわしい歩みをする努力は必要だと私は考えています。

 

→だから、信仰によって義とされたのなら、

私たちは義とされた者にふさわしく生きる努力をします。

真剣にその努力をします。

救われるための努力ではなく、救われたからこその努力です。

義とされているので、それにふさわしく生きる努力をします。

神を愛し、神に信頼し、神に従う努力をします。

 

→ですから神の教えを一生懸命守って、神の前に正しい者と認めてもらう努力を私たちはしません。

そんな努力をしても、神の教えを守れず、

結局自分は罪深い者なんだと自覚するだけです。

喜びはありません。

 

→神の賜物として、恵みによって、義とされたことを喜び、

神の教えを守る努力をして、少しでも守れたら喜びます。

感謝します。

勿論守れないこと、神の教えに背くこともあります。

その時は悔い改めます。

そして神の教えを守ることができるように聖霊の助けを祈ります。

一歩でも、二歩でもいいので前進する努力をします。

 

→信仰生活とは、神の約束に生きることの訓練と言うこともできます。

たとえばこんな神の約束があります。

思い煩う人への神の約束です。

 

フィリピ 4:6~7

どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。

何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい。

そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、

あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう

 

→ここには思い煩う人への神の約束があります。

「あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを

キリスト・イエスによって守る」とあります。

神は心の平和、神から来る平和を約束しています。

どうしよう、ああなったら困る、どうしようという思い煩う心に平和が満ちるのです。

それは人知を越える平和とあります。

思い煩いの原因となる問題が解決されるとは書かれていません。

思い煩いの原因となる問題がある中で、なお心に平和を抱いていることができるというのです。

神の平和、これも神の賜物です。恵みです。

この恵みを信じ、この恵みに立って行動するのです。

どう行動したらよいのでしょうか。

神はこの約束の中で指示しています。

「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、

求めているものを神に打ち明けなさい」。

祈りと願いをささげる、これがキリスト者のなす努力です。

神の約束に立ち、行動するとき、約束は実現するのです。

 

→キリスト者の努力、それは自分の力で悩みを解決する努力ではありません。

朝早くから働いた人のように、自分の労働に見合う賃金を要求する努力ではありません。

神の賜物、恵みに立ち、行動する努力です。

夕方の5時からでも、雇われたことを感謝して働くことです。

 

→聖書には神の約束がいくつも、いくつも書かれています。

信仰によって義とされる、これは信仰義認の教えですが、

これは神の約束です。

聖書を読む楽しみ、喜びの一つは神の約束を発見することです。

そこには神の賜物、恵みがあります。

あなたの置かれた状況にふさわしい神の約束が聖書には書かれています。

この賜物、恵みを見いだすとき、

その恵みに立って、実を結ぶ努力を私たちはすることができます。

このような努力を神は祝福し、最後の裁きにおいて、

「良くやった」と救いに入れてくださると私は信じます。

 

→聖書を読むとき、自分に必要な神の約束を見つけるとき、

私たちは神の賜物、恵みを見いだすことができます。

そして実を結ぶさらなる恵みが備えられています。

聖書はどんな恵みを私たちに用意しているのでしょうか。

イエス・キリストはどんな恵みを私たちに備えて下さっているのでしょうか。

イエス・キリストはあなたの抱える問題のために、

あなたの将来を開くために

どんな恵みを用意されているのでしょうか。

どんな約束を用意されているのでしょうか。

聖書はあなたを待っています。

祈ります。

 

祈り

天の父なる神さま、

今日も御言葉に聞くことができ感謝いたします。

キリスト者の努力はあなたの恵みを得る努力ではなく、

あなたの恵みに対する応答の努力であることを教えてくださり感謝いたします。

私たちは思い違いをして、あなたの恵み、あなたの賜物、あなたの祝福を得るために努力をしてしまいます。

そうではなく、与えられた恵みに、賜物、祝福への応答が私たちのなす努力であることを教えてください。

そして努力できたことを喜び、感謝し、あなたをたたえることができるように導いてください。

イエス・キリストの御名により祈ります。