一昨日説教奉仕をしました。
原稿を紹介します。
聖書 ローマ 1:18~32
説教 天から啓示される神の怒り
1.導入
→今日は神の怒りがテーマです。
神は愛の神なのに、神はなぜお怒りになるのかと思いませんか。
旧約聖書の神は怒る神、新約聖書の神は愛の神、
だから私は新約聖書しか読まないと言った人がいます。
このような聖書理解は間違っています。
今日の箇所は新約聖書ですが、怒る神を語っています。
旧約聖書も愛の神を語っています。
自分の好き嫌いを脇に置いて、真理を語る聖書に耳を傾けたいと思います。
そして神さまの御心に心を向けたいと思います。
そして神さまがいかなる方かを悟らせていただきたいと思います
→使徒パウロは、福音を恥としないと語りました。
そしてその福音を語り始めます。
すると彼は神の怒りから語り始めるのです。
なぜでしょうか。
→福音書を読むと、救い主メシアの先駆者として
洗礼者ヨハネの働きが紹介されています。
彼のもとに多くの人が来て、罪を告白し、彼から洗礼を受けました。
このヨハネは、彼のもとに来たファリサイ派やサドカイ派の人、つまりイスラエルの宗教指導者たちにこう言いました。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」。
ヨハネは神の怒りを語りました。
そして「悔い改めて福音を信ぜよ」と語りました。
→イエスも「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って活動を開始しました。
「悔い改めよ」。何を悔い改めるのでしょうか。
自分が犯した罪を悔い改めるのです。
なぜ悔い改めるのでしょうか、
罪は神の怒りを招くからです。
→ここで私たちは、イエス・キリストの十字架の意味を知ることができます。
神は聖なる神、罪を嫌われ、罪に対してお怒りになります。
神は人間を救うために御子イエスを十字架につけられました。
イエスは人類が犯す罪に対する神の怒りを十字架の上で
その身に受けられたのです。
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばれ、
神に見捨てられるという体験をされました。
罪に対する神の怒りを真剣に考えるから
キリストの十字架の贖いを神の恵みとして信じることができます。
2.人間の罪について
→18節
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
→まず言葉の意味を確認します。「真理の働きを妨げる」とあります。
真理という言葉は聖書によく出てきます。
この箇所の真理は何を意味しているのか、戸惑います。
でも25節にこうあります。
「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです」。
これを読むと、真理とは造り主なる神がおられることを意味していることがわかります、
この神を崇めることが真理に従うことであると教えられます。
この造り主なる神を認めない、それが罪であり、この罪に対して、神の怒りが向けられることがわかります。
→<不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義>とあります。
不信心と不義とあります。
先ほど十戒を唱えました。
この十戒は、前半が人間の神に対する態度についての戒めです。
後半は、人間の他の人間に対する態度についての戒めです。
→不信心とは、十戒の前半の戒めを破ることです。
「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」
「あなたはいかなる像も造ってはならない」
「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。
→これらの戒めを破ることが不信心です。
それなら私は守っていますと皆さんは言うかも知れません。
戒めを上辺だけ、文字通りに守ることはできます。
大切なことはその戒めの本質を理解し、それに従うことです。
戒めの深い意味を知ることが大切です。
これらの戒めの本質は、神を神として心から崇めなさい、
神を神として畏れ敬いなさい、神の御心を尊重しなさい、
ということです。
人格を持つ神を敬いなさい、との意味です。
→たとえば、
今日は忙しかったから聖書を読むのをやめたとか、
時間がなかったから、祈りは短くしたとか、
日々の忙しさに流されて神さまのことは考えなかった、とか
この戒めはいくらなんでも難しいわよね、守るなんて無理よね、
などと語ることとか、
今日は疲れちゃったから、礼拝は休んでもいいかな、と怠け心から礼拝を休んだりすることとか
このように神をないがしろにすること、神を軽んじることが不信心です。
私にはこういう不信心があると皆さんにも心当たりがあるのではないでしょうか。
不信心とは、神を軽んじ、ないがしろにし、畏れ敬わないことです。
→不義とは、十戒の後半の戒めを破ることです。
「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」
これらを破ることが不義です。
イエスは、かつてこう教えられました。
マタイ5:21
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。
→人を殺さなければ、この戒めを守っているとは言えないのです。この戒めの本質は他者を尊重するということ、他者の人格、他者の心を尊重し、他者を傷つけないということです。
相手をバカにするような発言は、殺人に等しいとイエスは教えます。
マタイ5:27~28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
→女性を欲望の対象としてみることは姦淫したに等しいとイエスは言われました。
欲望の対象としてみる、そこには女性を、人格を持った人間として敬うという考えはありません。
→十戒の他者との関係における戒めは、他者の人格、心、尊厳を傷つけることを禁じています。
冗談のつもりで人をからかう、これは不義です。
人の悪口を言う、人を批判して面白がる、
これらも他者の尊厳を傷つける不義です。
29節以下に、不義のリストが書かれています。
彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
→人間はだれもが、不信心、不義の罪を犯しています。
人間はだれもが、神の怒りを受ける者となっています。
これらの罪が今の世にも満ちていることが分かります。
この点について使徒パウロは、ロマ書の3章でこう語っています。
3:10~12
「義人はいない、ひとりもいない。
悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。
すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。
善を行う者はいない、/ひとりもいない。
3.罪を弁解できない。
→パウロは、神は人間に対してご自身を明らかにされたので人は神を知る者となったと書きます。
人が神を知ったのに、神を崇めず、感謝をしないなら、神の怒りを受けることについて、人は弁解することができないとパウロは語ります。
1:19~20
なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。
世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。
→私は若い時、神を信じていませんでした。
教会の礼拝にも行っていませんでした。
神は被造物を通してご自身を示したと書かれていますが、
私は自分が神を知る者となったという自覚はありません。
ひょっとしたら神はいるかも知れないとの思いはありましたが、
それが自分の生き方に影響を与えることはありませんでした。
→私が、神はいるかも知れないと思ったことには理由があります。
たとえば人間という存在の不思議さ、精巧にできた人間存在は、
進化論が語る進化の結果とは思えませんでした。
また、悪いことをした時、良心の呵責を覚えます。
人間の進化で、良心が生じたとは思えません。
地球上どこへ行っても、神を礼拝している人たちがいます。
これらのことで私は、神はいるかも知れないと思っていました。
でも神を崇め、神に感謝をすることはありませんでした。
神が人格的な神で、人間に応答を求める存在であるとは知りませんでした。
→そんな私に「あなたは神の怒りを受けるよ」と言われたらどうしただろうかと思います。
少なくとも、悔い改めて神を信じることはなかったと思います。
もし神の怒りを受けるというなら、もっとはっきり、神がいることを示して欲しかったと抗議するかもしれません。
神がいかなる方かをはっきり示すことがないのに、罪を犯していると責められても納得できないと弁明するかもしれません。
→今私たちが読んでいるこのローマの信徒への手紙は、ローマにいるキリスト者に向けられた手紙です。
キリスト者は神を信じています。
キリスト者は神を知っています。
神を信じていても、不信心つまり神を軽んじる罪を犯す可能性があります。
さらに不義、つまり他者に対して罪を犯す可能性がありま
す。
そこでキリスト者は罪を犯した時、神にそれを弁解することはできないとパウロが教えていると理解します。
→もし私たちが罪を犯したとき、罪をきちんと認めることが大切です。
自分の中に神を軽んじる心があったのか否か、
罪の誘惑に負けたのか、
自分がなぜ罪を犯したのか、理解することが大切です。
あるいはイエス・キリストの贖いによって赦されているからと
罪を犯した事実をやり過ごすことがあってはいけないと思います。
4.罪についての教え
→不信心は、神を崇めない罪、神を軽んじる罪です。
不義は、他者を傷つける罪、他者をないがしろにする罪です。
他者をないがしろにするとは、自分が傲慢になることです。
傲慢もまた不義です。
ここで大切なことは、不信心が不義を生むことです。
つまり神を崇めないから、他者を傷つける罪を犯すということです。
神を崇めないから傲慢になります。
傲慢になるから神を崇めなくなると言うこともできます。
神を心から崇めていたら、罪は生まれません。
不信心が不義を生みます。
それゆえ、他者を傷つける、他者をないがしろにすることは、
神を敬わず、神を軽んじているということです。
不義により、人は、畏れ敬うべき神をないがしろにし、
創造主なる神の権威を否定するのです。
この罪に対して神は怒りを現します。
→また不信心は、人の心に大きな影響を与えます。
ローマ 1:21~22
なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、<むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった>からです。自分では知恵があると吹聴しながら<愚かになり>、
神を畏れない人は、<むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなる>とあります。
自分では知恵があると吹聴しながら愚かになるとあります。
その結果、神を畏れない人はどうなるのでしょうか。
29節以下の悪徳表です。
→29節以下に、人間が犯す他者に対する罪の具体例が書かれています。
1:29~31
あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、
人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、
無知、不誠実、無情、無慈悲です。
人は自分には知恵があるとのプライドを持ちながら、このような罪を犯すのです。
神を軽んじる心はどんどん堕落していくことが分かります。
5.天から現れる神の怒り
→18節
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
→神は天から怒りを現されるとあります。
この世に起きる出来事で、それが神のみ業であると誰しもが認めるような出来事はありません。
信仰者は、それが神のみ業であると解釈し、神のみ業と信じます。
神を信じない人は、それは偶然だと言ったりします。
聖書は、神が天から怒りを現された出来事を伝えています。
創世記にはノアの洪水の物語があります。
創世記 6:5~7
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」
→神の怒りは洪水となって現れ、ノアの箱舟に乗らなかった人間、動物は、みな滅びてしまいました。
→さらにエジプトで奴隷状態で苦しんでいたイスラエルの人々。
彼らは奴隷としての苦しみから神に助けを求めました。
神は彼らをエジプトでの奴隷状態から救うこと、
さらに乳と蜜の流れる土地に連れて行くと約束しました。
神はイスラエルの民をエジプトから解放し、神が約束した土地に向けてイスラエルの民を導きました。
しかし約束の地に向かう荒野の旅には困難が繰り返し起きました。
神は奇跡を行いイスラエルの民を困難から救い出しました。
しかし困難が起きるたびに神に不平を言う人たちがおり、彼らは神の怒りを買い、約束の地に入ることができませんでした。
→そして何よりも、何よりもはっきりと神の怒りが示されたのは、
イエス・キリストの十字架の死です。
キリストは全人類の犯す罪に対する神の怒りを身に受け死にました。
キリストの十字架の死こそ、典型的な神の怒りの現れです。
→そして今日の聖書にも、神の怒りが書かれています。
それは罪を犯した者を放置するという神の怒りです。
「好きにしたら」と罪を犯すままに人間を放置するのです。
1:24
そこで神は、彼らが心の欲望によって<不潔なことをするにまかせられ>、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
1:26
それで、神は彼らを恥ずべき<情欲にまかせられ>ました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
1:28
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを<無価値な思いに渡され>、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
→罪を犯す者を放置する、これも神の怒りの現れだというのです。
人は悔い改めよと言われても、なかなか悔い改めません。
そこで神は、人が行うに任せます。
人は行きつくところまで行かないと自分の罪を認めないのです。
しかし神が、人が行うに任せることは、人を見捨てた、ということではありません。
→その実例が聖書にあります。
ルカ福音書15章にある放蕩息子の物語です。
それは家を出ていった放蕩息子の帰りを待っている父の姿です。
父は息子が家を出ていくのを止めませんでした。
息子に、自分のしたいようにさせました。
そしてこの父は、息子が帰ってくるのを忍耐強く待ちました。
息子がいつの日か、戻ってきて、
自分と一緒に生活をする日の来るのを待っています。
→神もまた、不信心と不義の中にいる人間たちが、いつの日か、
神のもとに帰って神を崇める日の到来を待っていると私は信じます。
私たちが生きている今の世界、人類は、神から、好きにしたら、と言われているような状況に思えてなりません。
平和が大事だと分かっているのに、自分の面子、プライドのために戦争を続ける国家の指導者たち。
自分がいかに愚かなことをしているのか、悟るがよい、と神さまがおしゃっているような気がします。
このような人類だから、福音が必要であり、神は御子をこの世界に送ってくださいました。
→私は、この聖書箇所を読んで二つの問いかけを受ける思いがします。
①自分が罪を犯すとき、果たして神を軽んじていないかどうか、
②今の自分の状態は、神から好きにしたらと言われている状態ではないのか。