クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.4.13)
聖書 コリント一14:20〜25 大人として考えよう

 今朝目についた新聞記事がありました。「福知山線事故 励まし合う被害者」と見出しがついていました。三年前の事故ですね。事故にあった「鈴木順子」さんの様子が紹介されています。彼女は事故にあった時、33才で、事故後五ヶ月も意識不明状態が続きました。
その後退院されましたが寝たきり状態。母親のもも子さん(60才)と近くに引っ越してきたお姉さんとで24時間態勢で介護をしたとのことです。

 その記事を書いた記者は月に一回、事故にあった順子さんの面会に行っています。家族の介護の様子が報道されると、鈴木さん家族を励ますために、負傷者や遺族たちが集まるようになったり、順子さんがリハビリに励む様子を見て、電車に乗れないPTSD(心的外傷ストレス障害)を乗り越え、就職した負傷者がいたことなどが書かれています。
 この記事を書いた記者はこう結論づけています。

「人は決して一人で生きているのではない」

と三年経った今、事故を受け入れ、互いに励まし合う人の輪が広がっていると書いています。

 私たちも、互いに励まし合って、キリストの福音に生かされる喜びを分かち合い、これを世の多くの人々に伝えたいと思います。


1.信じる者として、異言と預言を評価すると 


 さて聖書です。コリントの教会には様々な問題がありました。12章から14章は霊的な賜物の問題が書かれています。この問題を取り扱う中で、13章の愛についての教えがあります。愛を第一に考えて問題を解決しなさいとパウロは教えています。


 コリント教会では、異言を語るという賜物を持っている人がそのことを誇っていたようです。「自分は持っている」という誇りは、時に持たない人への優越感となり、傲慢となっていきます。霊的な賜物を持つことは確かに素晴らしいことです。だからこそ気をつけねばなりません。


 異言を語るというのはどんなことなのでしょうか。使徒言行録2章では、自分の知らない外国語を聖霊に導かれるままに話すこととあります。自分の知らない外国語で話すなんて、本来あり得ないことです。あるいは天使の言葉を語るとも述べています。聖霊に導かれる時、それが可能となるのです。


たとえば、こうです。

パーテル ヘイモーン ホ エントイス ウラノイス
ハギアスセイトウ ホ オノマ スウー 
エルセトウ ヘー バシレイア スー 
ゲネーセートウ ト セレーマ スー。


 なんだか分かりますか。異言を聞くって、こんな感じなのでしょう。パウロは、教会の中で異言をいくら語って何の役にも立たないと述べます。


 聖霊の賜物として預言があります。預言とは、神から与えられた言葉を語ることです。時にそれは、これから起きることを予告します。使徒言行録にはアガポが預言する人として登場します。彼は大飢饉が起きることを預言しました。彼はまた後に、パウロエルサレムで捕らえられることも予告しました。パウロは述べます。

「預言は人を造り上げ、励まし、慰める」(14:3)と。

 預言は、他の人の信仰の成長を促し、さらに励ましたり、慰めたりするというのです。それで預言は異言にまさっているとパウロは述べます。


2.未信者との関わりから異言と預言を評価すると

 今日の聖書では、異言と預言について、未信者がどう受けとめるかという観点から検討がなされています。まず異言です。23節を読みます。

「教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか」(23節)。

教会の集会で、みんなが異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か、信者でない人が入ってきたらどう思うか、です。

パーテルヘイモーン ホ エントイス ウラノイス
ドルチャメンテ コチャメンテ
ハギアスセイトウ ホ オノマ スー
テクマク マヤコン テクマク マヤコン
エルセトウ ヘー バシレイア スー
トラバトーレ トルナラトッテミーロ

 こんな風にわけの分からない言葉が飛び交っていたら、この教会は変だ、と思いますよね。実際、私も未信者の時、皆が異言で祈っている場面に出くわし、驚いて恐れを感じたことを思い出します。


次は預言です。24節。

「反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら」(24節)

どうなるか、ですね。続いて、その人は、

「皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう」。


 信者でない人か、教会に見て間もない人は、預言を聞いていると、自分の罪に気づかされ、ひれ伏して神を礼拝するようになる、というのです。こんなことが起きたなら、教会がびっくりして会堂の中に木を三本生やします。

驚き桃の木山椒の木です(笑)。


 教会に来て間もない人にとっても、信者でない人にとっても、預言の方が優れていることは明白ですね。そこでパウロは、

「物の判断については大人になってください」(20節)と教えます。

 個人的に、聖霊の賜物をいただくことは素晴らしいことです。異言を語ることができることはすばらしいです。それにもまして素晴らしいのは、預言を語ることです。預言は、未信者の人を信仰へ導き、信仰者を励まし慰め、その信仰の成長を促すのです。教会を造り上げるのです。


 自分の信仰のことだけを考えるより、教会を造り上げるという神の御心を考えることができるのが大人の判断、大人の考えだというのです。子供は自分のことにだけ関心を持ちます。が、成熟した大人は、他者のこと、神のこと、教会のことなど、その関心が広がるんです。


神に仕える、教会の働きに仕える、それは成熟した大人の生き方になるんですね。そんなことして何の得になるの、もっと自分のやりたいことをしたら、と人はいうかもしれません。物の考え方では大人になって下さい、とパウロは語っています。


3.そこで ♪あなたならどうする♪ 


 そこで私たちも、私たちも物の判断では大人になりましょう。成熟した信仰者として歩みましょう。私たちは人を造り上げることに、教会を造り上げることに価値をおきたいのです。

「 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」(14:3〜4)。

 教会を造り上げることに価値をおくのです。他者を励まし、慰めることに価値をおくのです。

どうですか?


 自分だけの信仰で満足すればよいというのは、子供の考えだとパウロは言っているわけですね。私の好きな聖句があります。エフェソ4:29

「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(エフェソ4:29)。

 ところで、皆さんは、どんな言葉を聞いて、励ましを受け、慰めを受けられたでしょうか。


 教会で行う学びの中で、分かち合いをしています。一人びとりが聖書を読み、そこから導きを受けて歩んでいる姿を目にする時、私は励まされ、慰めを受けます。神様が一人ひとりを導いていると感じ、神様生きて働いておられるのがわかるので、うれしいですね。

互いに励まし合う言葉、慰め合う言葉を語り合う、素晴らしいと思いませんか。


 教会で、家庭で、皆さんは、どんな励まし、慰めの言葉を聞いておられるのでしょうか。ちょっと振り返ってみて下さい。


 一人びとりが聖書を読み、そこから導きを受けて歩んでいる姿を分かち合う時、キリスト者の考え方、生き方が語られます。そのような分かち合いが真剣になされていく時、未信者の人は、自分と信仰者の違いをはっきり認識します。その認識は、罪を悟らせ、神を礼拝させるように導くのです。


 家族や仕事に対する関わり、人との関わり方、問題に対する対処の仕方、信仰者の考え方、信仰者の行動。これらが語られる時、信仰者と未信者の違いが浮き彫りにされます。信仰者の歩みは、問題があったとしてもそこに平安や喜び、自由があります。それを聞いて未信者は驚き、希望を知り、神を信じるように導かれるのです。


 伝道が困難と言われる時代、実は、このような信仰者の分かち合いが、私たちの教会に、現代の教会に求められているのではないでしょうか。信仰者の分かち合いこそが、聖書が真理であることを雄弁に物語ります。聖書に従って生きていいんだ、という声を多くの人々は聞きたいのではないでしょうか。


 私たちが聖霊に導かれて自分の信仰の歩みを語る時、それは人を励まし慰める言葉になるのです。それは預言の言葉となるのです。今年度は、小グループの集いを持ちます。恵みに満ちあふれた分かち合いを共にしていきましょう。


祈り


天の父、私たちに預言の賜物を与えて下さい。
私たちに、人を励まし、慰める言葉を語らせて下さい。
あなたに導かれる歩みを語る言葉、
あなたの導きを受ける物として語る言葉を
預言の言葉として語らせてください。
聖書に書いてあることは本当なんだ、と励まし合うことができるように、慰め合うことができますように。
教会の中で、家庭の中で、励ます言葉を語らせて下さい。
この教会から、励ましと慰めが地域に流れていくように導いて下さい。
イエス・キリストの御名により祈ります。