自由・解放
復活の主とキリスト者の関わりで一番大切なことは、ロマ書6章に書かれています。キリストの死と復活が自分の出来事となります。
イエスは真理。イエスにつながる人は豊かに実を結びます。真理が私たちを罪から自由にします。
イエスは神の小羊と言われます。こひつじのしでおもいだすのは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放される物語です。
「罪を取り除く」ことの意味を考えるために、ヨハネの第一の手紙3章を読みます。
人は洗礼を受け、キリストに結ばれます。そして新しい命に生きる者とされます。そして神の戒めを守ることができる人となります。
私が今回信仰生活の出発点と考えたのは、罪に立ち向かう信仰の歩みを始める時を出発点としたいと思ったからです。4つのことに心を留めたいと思います。
「私」と私の心の区別の実例を紹介します。私の心には色々な思いが湧いてきます。それらの思いにどう対処するのか、それが「私」です。
人格としての「私」と私の心を区別するとき、罪に打ち勝つ道が開かれると考えます。
アダムとエバ物語は、罪を犯すように人間に働きかける存在、力がこの世にあることを示しています。
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
失敗したらもう一度やってみればいい。そしてまた失敗することです。前より上手に失敗することです。
やがて私は知りました。自分は罪の支配下にあること、闇の中にいること。そしてキリストに結ばれるとき、闇から光へ、罪の支配下から御子の支配下に自分が移されたことを。
御子の支配下に生きるなら、罪に打ち勝ち、罪の支配から自由になり、解放の喜びを味わう信仰の世界が開かれます。
今回は2番目、罪を犯すよう働きかける力に対する対策です。神さまは私たちを愛し、しっかりした対策を備えてくださっています。
1月22日(日)大阪にあるH教会で説教奉仕してきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 旧約聖書 出エジプト記 3章7~10節 新約聖書 ローマ 6:1~20 説教 罪からの解放 ~~~~~~~~~~~~~~~
罪に勝利する、大げさな表現かもしれません。罪に打ち勝つ秘訣です。
Aさんは<赦さなければいけない。でも赦せない>という思いが心の中でぐるぐる回り、辛い日々が続き、どうしようもなくなり、「神さま、赦します」と祈りました。するとどうしたことでしょう・・・
キリスト者はキリストと共に死にましたが、キリストが死者の中から復活したようにキリスト者はキリストと共に生きることになります。
罪から解放されるために、罪は敵であることを認識することが大切です。使徒パウロは、私たちが罪を犯さざるを得ないのは、私たちのうちに罪が住んでいるからであると語りました
罪からの解放とはどういうことでしょうか。キリスト者というのは、成熟を目指して成長する者であると考えることができます。成熟の過程で、罪からの解放を経験していきます。
罪から解放されるために大切なことは、それを本気で願うこと、本気で願っていることを行動で現すことです。反面教師となるのがイスラエルの民です。
エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます(ローマ6:8)。
イエス・キリスト、そしてイエス・キリストの父なる神は、私たちを罪から解放してくださる方です。この方に信頼し、助けを求めることが罪から解放されるために大切なことです。
罪の支配下にあること、あるいは罪の奴隷であるとはどういうことかを明らかにします。
イスラエルの民のエジプトでの奴隷状態からの解放、イエス・キリストによる罪からの解放には共通点であります。
出エジプトの出来事は、神の民は捕らわれから解放された自由な民であることを伝えています。そしてこれはキリストを信じる群れもまた捕らわれから解放された群れであることを指し示しています。
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死に、罪から解放されました。
私はクリスチャンが「神さまの戒めを守らなければならない」と語るのを何度も聞きました。なぜ、守らなければならないのかと考えるのでしょうか。
キリスト者は、律法の下にはいない、律法に対しては死んだ者、律法から解放されている、とあります。どういうことでしょうか。