自由・解放
キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
失敗したらもう一度やってみればいい。そしてまた失敗することです。前より上手に失敗することです。
やがて私は知りました。自分は罪の支配下にあること、闇の中にいること。そしてキリストに結ばれるとき、闇から光へ、罪の支配下から御子の支配下に自分が移されたことを。
御子の支配下に生きるなら、罪に打ち勝ち、罪の支配から自由になり、解放の喜びを味わう信仰の世界が開かれます。
今回は2番目、罪を犯すよう働きかける力に対する対策です。神さまは私たちを愛し、しっかりした対策を備えてくださっています。
1月22日(日)大阪にあるH教会で説教奉仕してきました。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 旧約聖書 出エジプト記 3章7~10節 新約聖書 ローマ 6:1~20 説教 罪からの解放 ~~~~~~~~~~~~~~~
罪に勝利する、大げさな表現かもしれません。罪に打ち勝つ秘訣です。
Aさんは<赦さなければいけない。でも赦せない>という思いが心の中でぐるぐる回り、辛い日々が続き、どうしようもなくなり、「神さま、赦します」と祈りました。するとどうしたことでしょう・・・
キリスト者はキリストと共に死にましたが、キリストが死者の中から復活したようにキリスト者はキリストと共に生きることになります。
罪から解放されるために、罪は敵であることを認識することが大切です。使徒パウロは、私たちが罪を犯さざるを得ないのは、私たちのうちに罪が住んでいるからであると語りました
罪からの解放とはどういうことでしょうか。キリスト者というのは、成熟を目指して成長する者であると考えることができます。成熟の過程で、罪からの解放を経験していきます。
罪から解放されるために大切なことは、それを本気で願うこと、本気で願っていることを行動で現すことです。反面教師となるのがイスラエルの民です。
エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます(ローマ6:8)。
イエス・キリスト、そしてイエス・キリストの父なる神は、私たちを罪から解放してくださる方です。この方に信頼し、助けを求めることが罪から解放されるために大切なことです。
罪の支配下にあること、あるいは罪の奴隷であるとはどういうことかを明らかにします。
イスラエルの民のエジプトでの奴隷状態からの解放、イエス・キリストによる罪からの解放には共通点であります。
出エジプトの出来事は、神の民は捕らわれから解放された自由な民であることを伝えています。そしてこれはキリストを信じる群れもまた捕らわれから解放された群れであることを指し示しています。
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死に、罪から解放されました。
私はクリスチャンが「神さまの戒めを守らなければならない」と語るのを何度も聞きました。なぜ、守らなければならないのかと考えるのでしょうか。
キリスト者は、律法の下にはいない、律法に対しては死んだ者、律法から解放されている、とあります。どういうことでしょうか。
福音は信じる者に自由、解放をもたらすものだと思います。新約聖書に出てくる重要な解放は三つあります。罪からの解放、律法からの解放、死の恐怖からの解放。
キリスト者は時に深刻な罪との戦いに直面します。神さまの御心に従いたくないという思いが、私たちの心にあるのです。
すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、
キリストに結ばれた人は、キリストと共に死にます。罪に対して死に、罪から解放されます。
大事なのは、悪い思いに支配されて行動しないことです。どうしたらいいのでしょうか。
「わたしバカよね、おバカさんよね」。細川たかしさんが歌った曲の出だしです。「自分ってバカなんだよね」。これは心を解放する言葉です。
私たちは、自分は自由にものを考えていると思っているのではないでしょうか。しかし案外私たちは束縛されていると思います。
神の戒めを守ろうとした時、心が抵抗することがあります。信仰の成長のチャンスです。
私は多くのクリスチャンが神さまの教えを守らなくてはならないと語るのを聞いてきました。どうして「守らなくてはならない」と考えるのでしょうか