自由・解放
罪へと私たちを誘う勢力を認めると、罪との戦いが生じますが、勝利が約束されています。
「しなければいけない」世界、律法の下にある信仰者の歩みから自由になった話しです。
キリスト者は神の教えを守らなければならないとは考えず、神を愛し、神の心を大切にするので、これに喜んで従おうとします。
キリストに結ばれたキリスト者は律法から解放されています。神の戒めを守らなければならないと考える必要はありません。
罪の捕らわれから解放された先にあるのはキリスト者の自由です。
今回考えるのは、人との関わりにおける罪からの解放です。人との関わりにおける罪も、さまざまな罪があります。色々な罪があると思います。そこで今回も私が体験したことを証しとして書くことにします。
罪からの解放という時、それは具体的な罪からの解放を意味すると私は考えます。そして解放は具体的な体験です。
信仰者はキリストにむすばれ、キリストと共に死にました。死んだ人に対して、罪は何の影響力も発揮することはできません。キリスト者は罪から解放されました。
私が聖書の「救いのモデル」と考える出エジプトの出来事は、示唆に満ちています。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれました。キリストに結ばれたので、キリストに起きたことは私たちにも起きたことになります。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
栗須は罪から解放された存在です。罪から解放されたとは、どのような意味でしょうか。
罪から解放されて生きるために、私たちが信じる神さまは、救いの恵みとして解放を与える神であることを信じたいと思います。
あなたがたは地の塩である。世の光である。これはクリスチャンのアイデンティティーです。
これぞ福音。 御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。 (コロサイ1:13~14)
クリスチャンのアイデンティティーを知ることが再生の始まりまで宇。クリスチャンのアイデンティティーの最初は、罪から解放されている、です。
福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
私のアイデンティティーは正しい人間。「私は罪深い」は信仰者のアイデンティティーではありません。神さまの助けを得て罪を克服します。
信仰告白の忘れられない言葉。 この方が、金や銀ではなく御自分の尊い血によって/わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放し、
私がタバコの奴隷だった話しです。もちろん解放されました。
罪から解放されるための正解を私は知りませんが、必要と思われることを紹介します。
罪からの解放・自由、それは具体的な罪からの解放であり、信仰者に体験される者です。
「私は罪深い者です」との告白から抜け出ようとしない人たちがいます。罪深くても赦しが与えられているからというのです。本当にいいのでしょうか。
罪とは何でしょうか。 神の教えに染むことです。 神をないがしろにする心です。
誘惑に打ち勝つことは大切なことですが、むずかしいことです。しかし神さまの御心を大切に思うとき、誘惑から解放されていきます。
罪からの解放。個人的な経験からの証しです。
キリストの福音は、私たちを罪の奴隷状態から解放し、私たちに自由を与えます。
イエス様は、わたしたちをほんとうにじゆうにしてくださる救い主です。
人からの誉れを求める人はイエスを信じることができません。しかし肉の思いとして人からの誉れを求める思いは湧いてきます。肉の思いとの戦い。勝利を導く神の恵み。
今日、ゲッセマネの園でイエス様が祈っている場面をルカ福音書で読み、デボーションをしました。そこであらためて思わされたことを、死の恐れからの解放の補足として書いておきたいと思います。 死の恐れの本質は、神さまに見捨てられることにあります。信仰…