イエス・キリストによる救いは罪の赦しだけではなく、罪の支配からの解放です。イスラエルの民のエジプト王の奴隷状態からの解放は、キリストによる救いが罪の支配からの解放であることを指し示すだけではなく、その解放がどのように実現するのかも共通しています。イスラエルの民の解放の時に指摘した四つのポイントがありました。
1.自分たちの無力を認めること
2.神の力に信頼すること
3.支配領域の外に出ること
4.解放を願う意志を持ち続けること。
そこでキリストによる罪からの解放についてもこの四つのポイントが妥当することを聖書が語っています。その点を明らかにする前に、罪の支配下にあること、あるいは罪の奴隷であるとはどういうことかを明らかにします。
まず、神さまは人間に自由意志をお与えになりました。自由意志を与えられているのなら、罪を犯さないことができるはずです。それなら罪をまったく犯さないで人は生きることができるのでしょうか。
キリスト教の歴史の中で、この点についての論争がなされました。古代のアウグスティヌスと中世末期の宗教改革者ルターは、人は罪を犯さないで生きることはできないと主張しました。そしてそれは教会の信仰として受け継がれています。だからこそ、イエス・キリストによる救いがあるわけです。
聖書はどう言っているのでしょうか。使徒パウロがローマの信徒への手紙7章でこう書いています。
ローマ 7:15~17
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
「自分が望むこと」とは、律法の教えを実行することです。「憎んでいること」とは、その教えを実行しないことです。私たちの中に住んでいる罪のせいで私たちは律法の教えを守ることができない、とパウロは書いています。このような人は罪の支配下にある、罪の奴隷であるとパウロは語っています。
ローマ 7:19~20
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
神の教えを守りたいと思うけどどうしても守ることができない、こういうことがあるとき、あなたは罪の支配下にある、あなたは罪の奴隷であるとパウロは語っています。そしてキリスト者はこれは真理として信じます。
私たちの中に罪が住んでいるというのは一種の比喩です。私たちが罪の支配下にあること、私たちが罪の奴隷であることをたとえた表現です。
神の教えを守りたいと思っても守ることができない、それを罪の支配下にある、あるいは罪の奴隷であると聖書は語っています。
私にはどうしても赦せない人がいる、と語る人は、「赦しなさい」という神さまの教えを実行できていないので、罪の支配下にあり、罪の奴隷であると言うことができます。
このような罪の支配下にある私たち、罪の奴隷である私たちをイエス・キリストは、罪の支配から解放してくださいます。私たちを自由にしてくださいます。