2024-01-01から1年間の記事一覧
老いの中にあって、過去を振り返るのも時間の過ごし方としていいのではと思うようになりました。。それで、私の信仰を支えた聖句を振り返りたいと思いました。
有名人の訃報が相継ぎました。自分の死に備えことの大切さを感じます。
信仰の父と呼ばれたアブラハムの信仰の特徴はヘブライ人への手紙11章1節に書かれています。 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
『輝く日を仰ぐとき』という讃美歌があります。5番はキリストの再臨について歌われます。この歌詞は私を励ましてくれます。
最後の審判を考えるとき、キリスト者として真剣に生きるべきことを教えられます。真剣に生きることを考えるとき、最後の審判の教えも受け入れ信じることができるようになるように思います。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
私が礼拝出席している教会では昨日、一本のろうそくに火が灯されました。アドベントと呼ばれる時期を過ごすことになりました。
最後の審判は、この世の終わりの出来事ですが、聖書によれば、神による創造という始まりがあります。この創造を抜きに終わりを考えることはできないと考えます。
信仰の父アブラハムは天の故郷を熱望していました。そこで私も。
聖書は最後の審判について語ります。現代人としては最後の審判を信じるのは簡単ではありません。これを信じることにチャレンジします。
老いを生きる今の私の小さな目標の紹介。
キリストが世の終わりに来られるとき、キリスト者は復活し、御子キリストの似姿に変えられます。
聖書は驚くべきことを語ります。イエスがいつの日か分かりませんが、この世においでになり、この世に終わりが来ると語ります。これをいかにして信じるのか。
福音は救いをもたらす神の力です。救いは罪からの救いでもありますから、キリストの復活は、私たちに罪に対する勝利をもたらす、神の力であることがもっともっと力強く宣べ伝えられて欲しい
先日、ロマ書8章29~30節を読んで、自分が信仰者になったのは、神の選びがあったこと、自分が神に愛されていたからだとあらためて思いました。
アブラハムは信仰の父と呼ばれます。自分が生きている間には実現しない神の約束を信じるという点でも、アブラハムは私たちの先輩であり、模範であり、父です。
私がキリスト者になって、いつの頃か思い出せませんが、キリストの復活は私の出来事であると考えるようになりました。だから私は、キリストの復活を真剣に信じるようになりました。
キリストの復活は初穂としての復活と聖書は語り、キリスト者もまた復活することを教えています。
聖書はイエスの死者からの復活を語ります。復活の意味、意義について思いを向けます。
永遠の命には、キリスト者は死後、上野本で永遠を生きるとされます。
永遠の命を得てキリスト者は生まれ変わり、神との交わりに生き、神の子として、父なる神と父と子の関係に生きるようになります。
神の独り子を信じるものには永遠の命が与えられます。ヨハネ福音書では、信じる者は既に永遠の命を与えられていると書かれています
私は若い日、むなしさを覚えていました。聖書には空しさからの救いについて明確な記述があります。
私が神との交わりに生きようとしたとき、神を知る努力をしました。聖書を通して、私たちは神を知ることができます。また人はいかに生きるべきか、神さまがどのように考えておられるのかも知ろうとします。これもまた聖書に書いてあります。
信仰とは神との交わりに生きること。神との交わりに生きるとき、人は幸いな歩みをします。救われて生きるとは、神との交わりに生きることです。
「万事が益となるように共に働く」との聖書の言葉を思いめぐらし、適用することにしました。
旧約聖書は、イスラエルの歴史が神との交わりをないがしろにする歴史であることを明らかにしています。
アブラハムは神から呼びかけられ、神との関わりに歩みました。イスラエルの民は奴隷からの助けを求め、神と民とされ、神との交わりに生きる者とされました。
救いとは罪の赦しと考えるのは、人間の視点です。神はイエス・キリストを信じる者を御自分との交わりに迎えるのです。だからイエス・キリストを信じる者を義としたのです。
私は若いときこう考えました。死を越える希望を本当に信頼できるようになるためには、この世にあって神の約束に生きる歩みをしようと。