自分の内にイエスが生きておられる、と語るのは勇気のいることです。何言ってんの、と人から言われそうです。しかし、信仰者としての自分の歩みを思うとき、自分の内にイエスがおられると自覚することは大切なことと考えるようになりました。それは実感することではなく、霊的なこと、つまり信じる事柄です。
ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
使徒パウロは、キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちは、キリストと共に葬られ、キリストが死者の中から復活させられように、私たちも新しい命に生きるとあります。
ここには洗礼を受けるとはどういうことことかが語られています。私たちは洗礼を受け、キリスト者になります。それはキリストに結ばれることであり、キリストが死んで復活されたように、私たちも死んで新しい命に生きるのだというのです。キリストの死と復活は私の出来事でもあると教えられます。
私はこのことを信じて、自分は生まれ変わって新しい命に生きていると信じます。パウロはさらに語ります。
ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。
私は自分が罪から解放されていると信じます。それは私がキリストに結ばれて、新しい命に生きているからです。キリストが私のうちに生きておられるから、私は罪から解放されていると信じますし、私は罪から解放されていると信じるので、キリストが私のうちに生きておられると信じます。
罪から解放されるとは、罪を犯さなくなることではありません。念のため。