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隠退牧師 holala によるブログ

キリスト、わが内に生きたもう(4)罪に打ち砕かれるパウロ(2)

 イエス・キリストが救い主であることを神から示されたパウロですが、どのような意味でイエス・キリストが救い主なのか、それが最初の問いでした。イエス様を救い主としてこの世に送られた神の御心をパウロは全く理解していませんでした。なぜ神の御心を理解できなかったのか、これも考えるべき問いでした。パウロがどのように考えたのか、それは分かりません。

 パウロがたどり着いた二つの結論があると私は考えます。

  • 第一は、神の前に正しい人間は一人もいないということです。
  • 第二は、神の前に罪を犯す自分はみじめな人間であるということです。

 神の前に正しい人間は一人もいないことについてパウロはこう語ります。

ローマ 3:10
正しい者はいない。一人もいない。

 神の前に罪を犯す自分のみじめさについてはこう語ります。

ローマ 7:15
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。

ローマ 7:19~20
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

ローマ 7:24
わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。

 パウロは神の戒めを行いたいと願いますが、それを行わず、むしろ逆のこと、つまり戒めを破ってしまう自分がいることに気づいています。それは自分の中に住んでいる罪のためであると語ります。人間は自己中心的な存在です。自己中心という罪が人間の中にあり、神の戒めを行いたいと思ってもそれを行えず、かえって逆のことを行う自分がいるのです。そのことをパウロは知っており、そんな自分は何とみじめな人間でしょうと語ります。

 ここには、自分は誰よりも律法を守っていると自分を誇るパウロはいません。イエス様が情欲をもって女を見る者は姦淫を犯していると教えられ、神の戒めの深みを指摘されました。パウロは何らかの形で神の戒めの深みを知らされ、自分が神の戒めを守っていると誇ることはできないことを思い知らされたと考えます。

ガラテヤ 2:16
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。

 人は神の教えを完璧に守って神の前に正しい者として立つことはできません。人は神の前に正しい者となることはできません。しかしイエス・キリストを信じる人を神は、正しい者と見なしてくださることを知り、イエス・キリストを信じたとパウロは語ります。イエス・キリストが十字架で死んだのは、人間の罪を償ういけにえとして死んだということを信じるなら、その人は神の前に正しい者とされるとパウロは知らされ、イエス・キリストを信じたのです。

 しかし大きな問題があります。どうしたら、神の教えを守ることができるようになるのか、どうしたら罪を克服して生きることができるのか、という問いがあります。そして答えがあります。キリストに結ばれた者、キリストとひとつにされた人は、罪を克服して生きることができるのです。パウロは、キリストに結ばれ、罪を克服して生きる者とされました。

ローマ 6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 キリストは死んで復活されました。洗礼を受けてキリストに結ばれた私たちは、キリストと共に死にました。自己中心的な私は死んだのです。私たちは神の子とされました。神の子として新しい命に生きる者とされました。かくして私たちは罪を克服して生きる者とされました。これは信仰者ならだれもが味わうことのできることです。これが福音、よき知らせです。

 パウロはキリストと結び合わされ、キリストとひとつにされ、どんなに死と隣り合わせの苦難に直面してもキリストを死者の中から復活させた神の力によって救い出されました。ある意味、パウロも死と復活を経験したのです。そして彼の内面においてもキリストに結び合わされ、キリストとひとつにされ、罪を犯す自分はキリストと共に死に、神の子として新しい命に生きるようにされ、罪を克服して生きる者とされました。

 このような経験を通してパウロは告白します。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

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イエス・キリストを信じる人を神は正しい者と見てくださることを
「信仰義認」と言います。
キリストに結び合わされ、新しい命に生きることを
「新生」と言います。
罪を克服して生きることを「聖化」と言います。
キリスト者は聖なる者とされていきます。

ツツジ 馬見丘陵公園