2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧
先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。
新約聖書を読むと、信仰生活にとって御子の存在は大きなものがあります。
素朴な質問をするなら、神の子ってなに? 人間を救うのはなぜ神の子? 救い主は、神の御子だというのです。どういうことなのかと思案します。
目が遮られるとイエスのことが分からなくなり、目が開くと聖書のことが分かるようになります。目を開くのはイエスです。
主を賛美することを喜ぶ、それは私のうちに主イエスが生きておられるからではないかと考えるこの頃です。
疑う心に対する対処法。私の場合。信仰者としてのアイデンティティー。聖書の真理性。
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
「約束された福音」と出しての説教。聖書はロマ書1章1~7節。
自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。
信仰者としての自分の歩みを思うとき、自分の内にイエスがおられると自覚することは大切なことと考えるようになりました。
私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。
イエスが復活したことを祝うイースタ。イエスの復活を信じるとは、主イエスが今、生きておられるという現実に自分が生きること。
私の心にスキがあるので、サタンは疑う心を、私の心の中に送ったと考えます。信仰者には悪魔との戦いがあります。
キリストの復活は死者の復活の初穂。「お前も復活するんだぞ。信じるのか」と迫ってくる者がありました。
パウロはその身に刺が与えられ、それは彼の弱さでした。それはサタンが置く歌使いでした。
アリマタヤのヨセフはイエス様の遺体を引き取り墓に納めました。イエスの死を思って導かれた祈り。
今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。明日は我が身か。
「恵みの高き嶺(ね)」という聖歌を youtube で聞いたことがきっかけでした。