妻の兄の葬儀に出席した翌日、ルカ福音書24章1~12節を黙想しました。イースタを迎えた直後だったので、この箇所を読みました。
婦人たちが、イエスの葬られた墓に行ってみると、石が転がされ、中に入ることができました。イエスの遺体が見当たりませんでした。途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れ言いました。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。
さらに言います。
「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
婦人たちは、弟子たちのもとに戻り、一部始終を語りましたが、弟子たちはその話しが戯言に思え、信じませんでした。弟子たちはイエスが三度ご自分の苦難と復活を予告した言葉を聞いていました。それでも信じませんでした。
弟子たちにとって死者の復活という出来事はありえない出来事でした。それが彼らの実感でした。
私はキリストの復活を信じています。でも今日この箇所を読んで私は、この出来事は他人事ではないと感じました。一種の迫りを感じました。
老いた今、この箇所を読む時、別な読み方ができます。キリストは死者の復活の「初穂として」復活されたことを思います。
コリント一 15:20
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
キリスト者は、キリストに続いて復活するのです。キリストの復活を信じるとは自分の復活を信じることであることが今回、迫ってきました。こんな経験は初めてです。勿論、自分が復活することは信じていましたが、今回、迫ってきたのです。「お前も復活するんだぞ。信じるか」と。
イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。このことを信じるか」と語られました。「このことを信じるか」、私の頭の中で響いています。