今、ヨハネ福音書の13章を読んでいます。今回初めて心に留まった箇所があります。19節です。
事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
事が起こるとは、イエス様が十字架で亡くなることを意味します。弟子たちはイエス様が誰であるのか、まだ十分には分かっていません。事が起こった後に弟子たちは分かるようになるのです。イエス様が「わたしはある」という方であることを。
ヨハネ福音書では、イエス様はたびたび「わたしは~である」と語られました。弟子たちが、イエス様がその通りの方であることを信じることをイエス様は語っています。
「わたしは命のパンである」(6:35,48)。
「わたしは世の光である」(8:12)。
「わたしは良い羊飼いである」(10:11,14)
「わたしは復活であり、命である」(11:25)
「わたしは道であり真理であり、命である」(14:8)。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(15:5)。
イエス様を信じるとは、イエス様がこのような方であることを信じることを意味しています。年をとった私に課題となるのは、「わたしは復活であり、命である」です。この言葉は希望を与える言葉です。私の復活を約束する言葉です。この希望をいかに確かなものとするのかが私の課題です。イエス様がそのように語っているのだから、信じればいいのです。信じればいいのです。でも「信じればいい」がどのようにして私の身に実現するのでしょうか。
イエス様はおっしゃいました。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25~26)。
素直に心から信じることができるなら、「信じます」と答えればよいのです。私は信仰者ですが、「将来こうなる」とされることを「信じます」と言い切ることにためらいを感じることがあります。特に自分の死後に起きるとされていることに対して信じることにためらいを感じます。それは私の理性のなせるわざです。私自身は信じたいし信じていますが、ためらいがあるのです。どう理性を説得するのかが課題です。
そして思いめぐらしている時、あることを思い出しました。それは親鸞です。法然は彼の師です。親鸞は言います。
「たとい法然聖人にだまされ、すかされて、念仏したおかげで地獄に落ちたとしても、後悔するつもりはあらへんのや」(歎異抄、川村湊訳、光文社)
と語ったそうです。法然の教えを受け入れ、その結果、地獄に落ちたとしても後悔しないと言うほどに法然に信頼したのです。いや信用したのです。私も同じように、イエス様を信用すればいいのだと思いました。イエスを信じる覚悟。それはイエス様を信用すること。
「たといイエス・キリストにだまされ、すかされて、イエスを信じて地獄に落ちたとしても、後悔するつもりはあらへんのや」。
「わかりました」と私の理性が言いました。