終末
『いつかは知らねど』(聖歌)を聞き、ひとつの出会いを与えられました。信仰を励まされるうれしい出会いでした。
『輝く日を仰ぐとき』という讃美歌があります。5番はキリストの再臨について歌われます。この歌詞は私を励ましてくれます。
最後の審判を考えるとき、キリスト者として真剣に生きるべきことを教えられます。真剣に生きることを考えるとき、最後の審判の教えも受け入れ信じることができるようになるように思います。
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
私が礼拝出席している教会では昨日、一本のろうそくに火が灯されました。アドベントと呼ばれる時期を過ごすことになりました。
最後の審判は、この世の終わりの出来事ですが、聖書によれば、神による創造という始まりがあります。この創造を抜きに終わりを考えることはできないと考えます。
聖書は最後の審判について語ります。現代人としては最後の審判を信じるのは簡単ではありません。これを信じることにチャレンジします。
キリストが世の終わりに来られるとき、キリスト者は復活し、御子キリストの似姿に変えられます。
聖書は驚くべきことを語ります。イエスがいつの日か分かりませんが、この世においでになり、この世に終わりが来ると語ります。これをいかにして信じるのか。
アブラハムは信仰の父と呼ばれます。自分が生きている間には実現しない神の約束を信じるという点でも、アブラハムは私たちの先輩であり、模範であり、父です。
キリストに見倣い、キリストに似姿を目指す、信仰者の目指す生き方です。
終わりを見て生きる、それが私の人生観です。自分の命の終わりと世界の終わりの終末。この二つを見て今を生きます。
キリスト者は、地上の生涯を終えて神の国に迎えられます。神の国に迎えられるのにふさわしい人はどのような人なのでしょうか。
主イエスは天国を語るとき、タラントンのたとえを話されました。最後の裁きと結びつけて考えます。
未信者の家族の救いはどうなるのでしょうか。救われるのか、救われないのか。
人は信仰によって救われるのか、それとも行いによって救われるのか。そのような問いを立てることができます。
最後の審判を思うとき、すぐに心に浮かぶのは「こころを高くあげよう」(讃美歌第二篇1番)という讃美歌にある歌詞です。
人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。再臨のキリストは栄光のキリストです。
聖書は、私たちが神の国に迎えられるとき、主イエスに似た者となることを語っています。
私が終末を信じる根拠の一つは最後の審判です。 主イエスの語った教えがあります。マタイ25章
終末の到来について信じる理由、根拠を見出したいというのが人間の心情です。私自身が信じる理由として考えていることを紹介します。
人生行路の第三段階は、終わりを見て生きる、ということです。ここでは、世界の終末と私たちの生きかたを考えます。。
年末になると思うことがあります。終わりがあること。自分の人生に、そしてこの世界に。
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。・・・
主イエスは弟子たちに世の終わりが来る前に大きな苦難が訪れると語られました。
聖書は世の終わり、終末について語ります。どのようにしたら信じることができるのか、悩みました。
聖書が語る救いは「滅び」からの救いです。滅びとは何でしょうか。神さまに見捨てられることと考えます。
聖書が告げる救いの三つの側面、過去、現在、未来の救いについて考えます。