私の終活は、ひと言で言えば、死を越える希望をたしかにすることです。聖書が教える終末の事柄を信じて平安な気持ちで最後を迎えることです。亡くなる時、病気のゆえに痛みがあるのかないのか、苦しむのかどうか、今は気にしません。先のことはその時になって考えればいいので、思い煩うことはしないことにしています。
聖書が告げる死を越える希望をいかにたしかにするかを課題とします。終末の到来、最後の審判の教えは、現代人には絵空事に思えます。私は信仰者なので信じています。若い時は死は将来のことなので死を越えることはあまり考えません。今、本気で取り組もうとしています。最初に考えるのは「滅び」です。滅びとは何か、です。
ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
この有名な聖句から判断すると、滅びないで永遠の命を得ることが救いです。
コリント一 1:18
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
キリストによる救いを受け入れない人は滅んでいく者とされます。滅びとは何か、です。滅びとは、神さまに見捨てられることではないか、と考えています。幼い頃からずっと私は死の恐れを感じてきました。自分が死んで自分の存在が消え、世界から見捨てられると考えて恐ろしさを覚えました。信仰を得て、死が恐ろしいのは、神に見捨てられることであると考えるようになりました。
神さまが信仰者を励ます時、共通した言い方をしています。最初は家出をしたヤコブに対する神さまの言葉です。創世記28章です。
28:15 見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。
神さまはモーセの後継者となるヨシュアに対して、こう励ましました。
ヨシュア記 1:5~6
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。
預言者エレミヤは、不信仰なイスラエルの民を神は見捨てると語りました。
エレミヤ 6:8
エルサレムよ、懲らしめを受け入れよ。さもないと、わたしはお前を見捨て/荒れ果てて人の住まない地とする。
そして十字架上でのイエス様の叫びの言葉。
マタイ 27:46
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
このイエス様の言葉は、神に見捨てられることがどれほど絶望的なことかを物語っています。しかし私はイエス・キリストを信じ、永遠の命を与えられて今を生き、終末が到来した時には、最後の審判を経て神の国に迎えられると信じます。
聖書を読んでわかることは、神さまの方から人間を見捨てることはありません。人間の方から神さまを見捨てていることです。イスラエルの人たちは、モーセの十戒にもかかわらず、偶像礼拝をしました。偶像礼拝、それはイスラエルの民をエジプトから救い出した神を見捨てることに他なりません。
もし私たちが神さまのみ心に無関心になったら、私たちは神を見捨てることになるのではないかと考えます。それゆえ聖書を読み、神さまの御心を知ることに努力しています。私の終活のひとつです。