罪
「私」と私の心の区別の実例を紹介します。私の心には色々な思いが湧いてきます。それらの思いにどう対処するのか、それが「私」です。
人格としての「私」と私の心を区別するとき、罪に打ち勝つ道が開かれると考えます。
罪から解放された「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。罪を犯したくないと強く考え、意志する「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。それは私たちが体を持っているです。
実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。
罪からの救いを考えるときに、私たちの心の汚れも問題となります。私たちの心は罪へと傾いています。
アダムとエバ物語は、罪を犯すように人間に働きかける存在、力がこの世にあることを示しています。
聖書はイエス・キリストは私たちの罪のあがないのためのいけにえとしてご自身を献げられたと語ります。
聖書が伝える救いは、まず罪からの救いです。創世記6章からノアの洪水の物語が始まります。
赦しについて私の考えを紹介します。私に対して罪を犯した人が謝罪したら、私は赦します。・・・
失敗したらもう一度やってみればいい。そしてまた失敗することです。前より上手に失敗することです。
義とされた私たちが罪を犯したら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。取り消されません。
人は皆、アダムにつながる人として罪を犯し、罪の支払う報酬として死にます。しかしキリストを信じ、キリストに結ばれるとき、永遠の命を得ることになります。
神の愛は、私たちを罪から救う愛です。神の愛ですから、罪から私たちを完璧に救います。では罪からの救いとはどのようなものでしょうか。
キリスト者の実際の生活を考える時、身近な家族こそ、第一の隣人ではないでしょうか。身近な家族だからこそ、自分を愛するように愛することが大切です。
私の内にある問題点とは、自分を第一にする心が心の底にあるということです。私は自分を罪深いと考えます。
罪に勝利する、大げさな表現かもしれません。罪に打ち勝つ秘訣です。
Aさんは<赦さなければいけない。でも赦せない>という思いが心の中でぐるぐる回り、辛い日々が続き、どうしようもなくなり、「神さま、赦します」と祈りました。するとどうしたことでしょう・・・
キリスト者はキリストと共に死にましたが、キリストが死者の中から復活したようにキリスト者はキリストと共に生きることになります。
罪から解放されるために、罪は敵であることを認識することが大切です。使徒パウロは、私たちが罪を犯さざるを得ないのは、私たちのうちに罪が住んでいるからであると語りました
人間は自由意志を与えられています。しかし欲、恐れ、保身、プライド、恨み、怒り、嫉妬などのために人間は罪を犯してしまうことがあります。人は罪を犯さないで生きることはできないと聖書は語ります。
人間には自由意志が与えられています。では人間には自由意志があるので人間は罪を犯さないで生きることができるのでしょうか。
マルコ福音書のディボーションを続けています。先日、14章10~11節を読みました。これを読んで思いめぐらします。
罪からの解放とはどういうことでしょうか。キリスト者というのは、成熟を目指して成長する者であると考えることができます。成熟の過程で、罪からの解放を経験していきます。
罪から解放されるために大切なことは、それを本気で願うこと、本気で願っていることを行動で現すことです。反面教師となるのがイスラエルの民です。
エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。
キリスト者は律法の支配下から、恵みの支配下に生きる場所を変えます。つまり律法の支配の及ばない恵みの支配下に生きるようになったのです。
罪の支配下にあること、あるいは罪の奴隷であるとはどういうことかを明らかにします。
キリスト者はキリストに結ばれており、キリストと共に死に、罪から解放されました。
人がキリスト者になると、神の教えに従おうとの思いを抱くようになります。しかし、従いたくない心があることに気づきます。
神さまが人間を創造されたとき、人間は神さまの目に良い存在でした。しかし現実の人間には一つ問題があります。それは人間の自然本性の腐敗です。