罪
人が罪を犯す第三の理由は弱さです。弱さを隠すために、自分を守ろうとし、嘘をついたり、責任喧嘩したり、罪を犯します。
プライド、これもまた人に罪を犯させる原因の一つです。自分の尊厳を傷つけられると人は他者に対して攻撃的になります。
人間はなぜ罪を犯すのか。一つの理由は人間は何事も思い通りにしたいという欲があるからです。
イエスが私に語ります。「もう、罪を犯してはならない」。このイエスの言葉をどのように受けとめるのか。イエスは、私たちが罪を犯さないように助ける方と信じます。
イエスは真理。イエスにつながる人は豊かに実を結びます。真理が私たちを罪から自由にします。
罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。これは極端な言葉に見えます。でも人がどこに属しているのか、問いかけているように思います。
イエスは語ります。「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷である」。強烈な言葉です。
人が罪を犯すのはなぜか。神を畏れない心が罪を生み出します。
イエスは御自分を信じないユダヤ人たちに対して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」と告げました。
神の掟を破ることは罪ですが、掟を破るときには神をないがしろにする心があります。
イエスは語ります。「罪とはわたしを信じないこと」。大胆な発言です。
イエスは神の小羊と言われます。こひつじのしでおもいだすのは、エジプトで奴隷だったイスラエルの民が解放される物語です。
「罪を取り除く」ことの意味を考えるために、ヨハネの第一の手紙3章を読みます。
イエスは罪を取り除く方です。しかもイエスは言います。「もし子(イエス)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」。
ヨハネ 1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。罪を取り除く、どういう意味でしょうか。
私は近年、この世界が何と罪に満ちあふれていることかと感じます。あるいは罪がいかに人間を支配しているのかと思い知らされます。
御子イエスの十字架の死。このしがなければ、人間の救いはありません。御子の死こそが人を救います。
神は世の初め、人間を造られるとき、人間が罪を犯すことをご存じでした。イスラエルの歴史を通して人間の罪が明らかになってから救い主を送るというのが神の計画でした。
罪によって私は死んだ、罪は私を欺き、私を殺したとあります。どういうこと?
福音を狭く理解することが起きていないだろうか。福音とは罪の赦しのことであるという施米理解。
「私」と私の心の区別の実例を紹介します。私の心には色々な思いが湧いてきます。それらの思いにどう対処するのか、それが「私」です。
人格としての「私」と私の心を区別するとき、罪に打ち勝つ道が開かれると考えます。
罪から解放された「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。罪を犯したくないと強く考え、意志する「私」が罪を犯すのはなぜでしょうか。それは私たちが体を持っているです。
実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。
罪からの救いを考えるときに、私たちの心の汚れも問題となります。私たちの心は罪へと傾いています。
アダムとエバ物語は、罪を犯すように人間に働きかける存在、力がこの世にあることを示しています。
聖書はイエス・キリストは私たちの罪のあがないのためのいけにえとしてご自身を献げられたと語ります。
聖書が伝える救いは、まず罪からの救いです。創世記6章からノアの洪水の物語が始まります。
赦しについて私の考えを紹介します。私に対して罪を犯した人が謝罪したら、私は赦します。・・・
失敗したらもう一度やってみればいい。そしてまた失敗することです。前より上手に失敗することです。