クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

受難

受難節黙想 23:44~49 私の霊を御手にゆだねます

死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。

受難節黙想 ルカ 23:39~43 憐れみに富むイエス

イエスと共に十字架につけられた犯罪人。二人のイエスに対する態度は対照的。

受難節黙想 ルカ 23:32~43 イエスの従順

死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。

受難節黙想 ルカ 22:66~71 証しするイエス

イエスは自分を死に追いやる最高法院で、堂々と証しをします。

受難節黙想 ルカ 22:14~23 新しい契約

主の晩餐において、キリストは新しい契約をもたらす方であると語られました。信仰者が律法を満たすようになるという約束。

受難節黙想 ルカ 22:14~23 主の思い

主イエスは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいとわたしは切に願っていた」と弟子たちに語りました。主の気持ちは何だったのか。

受難節黙想 隠された受難の意味

ルカ福音書が伝えるイエスの受難予告について、その意味はは弟子たちに理解できないように隠されていたとあります。

受難節黙想 ルカ 9:21~22 弟子たちへの受難予告

主イエスは受難の予告を弟子たちにしました。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるというのです。

受難節黙想(2)フィリピ 2:1~11

キリストの父なる神への愛と神への忠実、キリストの人間への愛の先にキリストの苦難があります

受難節黙想(1)フィリピ 2:1~11

キリストは御子でありつつ、人となり、十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。キリストの苦悩を思う受難節です。

裁判を受けた主イエス

神である方が人となり、この世に生まれメシア(救い主)としての働きをします。しかし人々はこの人を信じるどころか死刑宣告をします。死刑宣告を受けたイエスを人々は愚弄します。

人々から侮辱される主イエス

十字架につけられ、人々からあざけられた主イエスはどんな気持ちだったのでしょうか。

十字架を背負うイエス

十字架を背負ってゴルゴタの丘に向かうイエス様。どんな気持ちで十字架を背負っていたのでしょうか。

バッハのマタイ受難曲

教会でバッハのマタイ受難曲を聴く会が開かれ参加しました。貴重な体験でした。

主イエスの思い

受難節を過ごしている今、イエス様はどんな思いで苦難の時を過ごしておられるのか、思いめぐらしました。

目を覚ましていなさい

ゲッセマネの園で祈るイエス様は弟子たちに「目を覚ましていなさい」とお命じなりました。しかし弟子たちは寝入ってしまいました。

自分の弱さを知っていい

弟子たちは皆つまずくと主イエスが語ったとき、弟子たちは「そんなことはしない」と否定しました。

死ぬばかりに悲しい

ゲッセマネの園でイエス様が祈る場面を思いめぐらしました。一番印象に残ることは、イエス様が恐れもだえたこと、そして「死ぬばかりに悲しい」と言われたことです。

ユダに芽生えたイエスへの不信

今年の受難節はマルコ福音書を読んでいます。今日は14章10~11節。ユダの裏切りの場面です。イエス様の弟子の一人、イスカリオテのユダはイエス様を裏切り、イエス様を引き渡そうとして祭司長たちのところへ出かけました。そしてイエス様を引き渡す機会を狙…

受難節で思いめぐらしたこと(二)

イエス・キリストの十字架を神の計画という視点から考えます。神さまは世界を創造する時に十字架を計画しておられました。

受難節で学んだこと(1)

十字架の上でひとびとからののしられ、あざけられ、侮辱されたいえす。みじめなすがたをさらすのはなぜ?

愚弄されるにまかせるイエスさま

ローマの兵士たちに愚弄されるにまかせるイエスさまのお姿。どうしてそこまで。

わが主、イエス

イエス様は「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る」と語り死刑にあたると裁かれました。。

わたしと共に目を覚ましていなさい

ゲッセマネの園でイエス様は「わたしと共に目を覚ましていなさい」と弟子たちに命じました。これは私に向けられた言葉です。

祈り、そして決断

ゲッセマネの園で祈り。祈りの中で、十字架への道を決断するイエス。そして「立て、行こう」と前進するイエス様

イエス様の悲しみ

ゲッセマネの園で主イエスは祈られました。そのとき、「死ぬばかりに悲しい」とイエス様は言われました。何を悲しまれたのでしょうか。

弱さを誇るキリスト者

イエス様は朱の盤さんの後、弟子たちがみなつまずくことを告げます。それはなぜなのか。

確かさの追求

信仰を持つ人は、自分が信じることが確かであるとの思いを持つのではないでしょうか。確かさの追求は私の課題です。