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隠退牧師 holala によるブログ

死ぬばかりに悲しい

マルコ 14:32~36
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。

 この受難節、マルコ福音書を読み続けています。昨日と今日、ゲッセマネの園でイエス様が祈る場面を思いめぐらしました。一番印象に残ることは、イエス様が恐れもだえたこと、そして「死ぬばかりに悲しい」と言われたことです。

 まず「死ぬばかりに悲しい」とはどういうことでしょうか。「死ぬばかり」はその悲しみがどれほどのものなのか、悲しみの程度を語ります。悲しみが尋常ではないことを示します。これ以上ないほどの大きな、そして強い悲しみを意味していると思います。イエス様は何を悲しんでおられるのでしょうか。

 自分が救い主として世に来たのに世の人々に理解されず死んでしまうことを悲しむのでしょうか。つまり人々を罪から救うために世に来られたのに、理解されず、人々によって、宗教指導者たちによって死に追いやられることを悲しんだのでしょうか。あるいは自分は神の御心として十字架の道を歩んでいますが、どうしてこの道を歩まなければならないのか、十字架を目指す道を歩まなければならないことを悲しんでおられるのでしょうか。直面する死を覚えての悲しみなのでしょうか。

 またイエス様は、恐れてもだえたとあります。何を恐れて、もだえたのでしょうか。恐れにとらわれ、自分でもどうしていいか分からない状態に陥っています。恐れにより体が震えおののき、体全体で苦しんでいます。イエス様はなぜこのようにもだえているのでしょうか。イエス様の身に何が起きているのでしょうか。

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 イエス様の悲しみは神の悲しみではないか、との思いが与えられました。それなら神の悲しみとは何か、です。

 神によって造られ、神に愛されている人間。自由を与えられた人間。その人間が罪を犯します。聖書には、罪を犯す者は神に裁かれるとあります。神は聖なる神であり、正しい神です。神は罪を放置することはできません。罪に対して神は怒り、罪を犯す者を裁きます。旧約聖書には神の前に罪を犯した人が神に裁かれる場面が繰り返されます。

 しかし神は愛の神であり、人間が罪を犯すとき悲しむのではないかと考えます。ご自身が愛し、造られた人間が罪を犯すのです。悲しいと思います。今、ひとりの国家指導者が大義を掲げて隣国に軍事侵攻をし、街を破壊し、多くの人命を奪い、隣国を荒廃させつつあります。その指導者の語ることは、身勝手な偽りです。人間の罪を神は悲しんでおられると思わされます。

 旧約聖書にはイスラエルの民の罪が描かれています。罪という過ちを指摘され、正しなさいと言われ、悔い改めれば人間は罪を克服できるのでしょうか。それは無理であると旧約聖書は告げていると理解します。人間は繰り返し罪を犯しています。

 神は人間に自由を与え、人間の自由を重んじられます。神は預言者をイスラエルの民に遣わし、彼らに悔い改めを迫りました。しかし人々は悔い改めませんでした。神さまが愛し、御自分に似せて造られた人間が罪を犯し、罪の虜(とりこ)になっています。人間を造ったのは失敗だったのでしょうか。何で人間を造ってしまったのか。後悔の思いが神にはあるかも知れません。しかし神は人間を救うために御子イエスを世に遣わしました。罪を犯し続けたイスラエルの民を見捨てることはなさいませんでした。イスラエルの民に救い主、イエス様を送られたのです。

 神の悲しみ、それは人間が罪を犯している現実です。宗教指導者たちがイエス様を死に追い込み、十字架につける、ここに人間の罪は極まります。この人間の罪を悲しむ神の悲しみ、これをイエス様も悲しんでいるのではないでしょうか。死ぬばかりに悲しい悲しみです。

 と同時にイエス様はもだえています。恐れにもだえているのです。なぜもだえたのでしょうか。それはイエス様の目前にある「苦しみ」のためであると思います。それは十字架で処刑されるという物理的な痛み、苦しみだけではありません。

 父なる神が自分の死を通して人間を罪から救う大いなる業を行おうとしていることをイエス様は知っています。いったい父なる神は何をなさろうとしているのでしょうか。何をしたら人間は罪から解放され、神に対して誠実に、神を信頼して信仰に生きることができるのでしょうか。聖なる者として生きることができるのでしょうか。それはイエス様には分かりません。分かりませんが、それを神はなそうとしています。神の大いなるみわざです。何かとてつもなく苦しく恐ろしいことが待ち構えていることをイエスは予感しているのではないかと思います。そのためにイエス様は恐れもだえていたのではないかと思います。

 ここまで思いめぐらしてきたとき、讃美歌の言葉が心に浮かんできました。

ひとよ、汝(な)がつみの
大いなるをなげき
悔いてなみだせよ
このゆえキリスト
父のもとを去り、
この世にきましぬ。
死にたるを生かし
病をとり去り
ついに時いたり
ひとのつみのため
十字架のあがない
おえさせたまいぬ(
讃美歌第二編99番、讃美歌21、294番)

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ユキヤナギ 散歩道 2022.3.21