先週9月3日、無牧の教会の礼拝説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聖書 創世記6章5~8節
ローマ 1:18~32
説教 天から啓示される神の怒り
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→今日は18節を取り上げます。
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます」とあります。
→日本語の聖書には訳されていませんが、
この18節の冒頭に「なぜなら」という言葉があります。
するとこうなります。
「福音には神の義が啓示されています、
なぜなら神は天から怒りを現されるからです」となります。
神の義が啓示される、それは私たちの救いのことです。
つまり救いとは、神の怒りからの救いだということです。
さらに言えば、神の怒りは人間の罪に対するものですから、
救いとは罪からの救いとなります。
→パウロは18節以降、いよいよ福音について具体的に語り始めます。神の怒りから、救いを語り始めることになります。
でもこれは、神の怒りを語り、脅して信仰に導こうというものではありません。
パウロはあるいは聖書は、神の怒りをどのように語っているのか、
耳を傾けたいと思います。
☆
→「真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して
神は天から怒りを現される」とあります。
「真理の働きを妨げる」とあります。どういうことでしょうか。
口語訳聖書では「真理を阻もうとする」と訳されています。
私は、「神を否定すること」と理解してよいのではないかと思います。
人間のあらゆる不信心と不義は神を否定することになります。
神を認めていながら、平然と罪を犯し続けることはできません。
次に「不信心と不義」とあります。
この意味を考えるには「十戒」(モーセの十戒)を考えるとよいと思います。
神は十戒を二つの石の板に刻み、モーセに与えました。
1枚目の板には、神との関係に関する戒めが書かれています。
たとえば、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」「あなたはいかなる像も造ってはならない」などと書かれています。
もう1枚には、人間関係に関わる戒めが書かれています。
たとえば「殺してはならない」「 姦淫してはならない」などと書かれています。
不信心とは、神との関係の戒めを破ることを指します。
不義とは、人間関係に関わる戒めを破ることを意味します。
今、私たちが生きている世界では、「殺してはならない」との戒めが国家レベルでも個人レベルでも、踏みにじられています。
→このような不信心、不義に対して神は天から怒りを現すというのです。
「現す」という言葉は動詞の現在形が使われています。
神はこれまで、天から怒りを現してきたし、今も現すし、
将来においても怒りを現すと理解することができます。
☆
→では神は具体的にどのように怒りを現されたのでしょうか。
それを知る手がかりは旧約聖書にあります。
旧約聖書には神の怒りが現された出来事がいくつも書かれています。
典型的なのは創世記に書かれているノアの洪水の物語です。
創世記 6:5~8
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、
地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。
人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。
わたしはこれらを造ったことを後悔する」。
神は洪水を起こし、地上に生きているものを皆滅ぼしました。
このノアの洪水の物語は、
神が罪に対して怒ること、罪に対する神の裁きがあることを
教えています。
神は悪を許さない神、罪を憎む聖なる神であることがわかります。
→次は出エジプトの出来事です。話しが少し長くなります。
旧約聖書の出エジプト記、民数記に書かれています。
大昔。今から三千年以上も前のことです。
イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。
イスラエルの民は、その苦しみの中で、その苦しみのゆえに
神に助けを求めて何年も叫び続けました。
時が来て、神はその叫びを聞き、彼らを奴隷状態から解放すること、
彼らを実り豊かな地に連れて行くことを約束しました。
そして神はイスラエルの民をエジプト王の支配から解放し、
さらに約束の地へ向けて荒野の旅を導かれます。
この旅の途中シナイ山の麓で
神はイスラエルの民と契約を結びます。
旧約聖書の「旧約」は、この契約を指しています。
→神は「私はあなたたちの神となる」と約束し、
イスラエルの民は「私たちはあなたの民となります」と約束しました。
神が「私はあなたたちの神となる」と約束されたことは、
神がいつもイスラエルの民と共にいて、彼らを守り導き、
彼らを支え、助ける方になると約束されたことを意味します。
神は約束をもって信じる者を導く神です。
イスラエルの民が「あなたの民となります」と約束します。
これはイスラエルの民が、
神の民として、神を崇め、神を敬い、神に信頼し、
神の戒めに従って生きることを約束したことを意味します。
イスラエルの民は神の民として生きるように召されました。
→このように神の民として、神との関わりに生きること、
それを神との交わりに生きることと表現します。
これは人格的な交わりです。
イスラエルの民は、神との契約を結んで神の民として神との交わりに生きることを約束しました。
でも、それがどういうことなのか、よく分かっていませんでした。
→私たちにとって身近な人格的交わりは、結婚です。
結婚生活においては、互いの人格、互いの心を大切にします。
それが欠ければ、結婚生活はうまく行かなくなります。
それがきちんとなされれば、結婚生活は幸せになります。
信仰に生きるとは神との結婚に生きるようなものです。
お互いに約束を交わして生きるからです。
神との交わりに生きることを
信仰に生きることであると旧約聖書は教えています。
そこに神からの祝福があります。
神はイスラエルの民を祝福へと招かれました。
→エジプトを出てから何が起きたのでしょうか。
イスラエルの民にエジプトから出て行くように命じたエジプトの王は後悔し、イスラエルの民を連れ戻そうとします。
エジプトの軍隊が追いかけてきます。
出エジプト14:10~11
エジプトの王は既に間近に迫り、イスラエルの人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた。イスラエルの人々は非常に恐れて主に叫び、またモーセに言った。
我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。
一体、何をするためにエジプトから導き出したのですか。
→神はエジプト軍の攻撃を打ち砕き、イスラエルの民を助けました。
そして荒野の旅を続けます。今度は食糧がなくなります。
するとイスラエルの民は言います。
出エジプト記 16:3
「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」
→神は天からマナを降らせ、民に日々食べ物を与えました。
荒野の旅の中で、色々な困難が起きます。
するとイスラエルの民は神とモーセに文句を言います。
何でエジプトから導き出したかと不平を言います。
彼らはエジプトでの奴隷生活の苦しさの中から神に助けを求めて
何年も神に叫んだのです。
それを神は聞いて、エジプトから解放してくれたのです。
それなのに、なぜエジプトから導き出したのか、と文句を言うのです。
どう思いますか。
しかし神は、困難が起きるたびに文句を言う彼らを助けます。
そしてついに約束の地を目の前にするところに着きました。
しかしそこには強そうな人々が住んでいることが判明します。
民はどうしたでしょうか。
民数記14:1~3
共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。
イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。
「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。
どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」。
これを聞いてついに神は怒ります。
「この民は、いつまでわたしを侮るのか。
彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、
いつまでわたしを信じないのか」。
→神はエジプトにおいて、繰り返し、大いなる奇跡を行いました。
エジプト王は恐れをなし、イスラエルの民に出て行くように命じました。
それでイスラエルの民は奴隷状態から解放されました。
荒野の旅でも、困難が起きます。
困難が起きるつど、神は御業を行い、
イスラエルの民を困難から救いました。
そしてついに約束の地、実り豊かな地を目の前にするところに来ました。
後は前進して、その地を自分たちの土地にすればよいのです。
しかし民は、またもや文句を言いました。
神はイスラエルの民が神に信頼するようになるのを忍耐強く待っていたんです。
だから困難のつど彼らを助けました。
しかしここに至っても神に信頼しようとしない民に対して
神は怒りました。
→どのように神の怒りが現されたのでしょうか。
神はイスラエルの民をすぐに約束の地に入らせることをせず、
荒野で40年生活させ、神に信頼することを学ばせました。
神に文句を言った人たちは、荒野の40年の生活のなかで死に、
約束の地に入ることはできませんでした。
エジプトか荒野で死んだ方が良かったといったのですから、
願いがかなったことになります。
彼らの子供世代が約束の地に入りました。
→神はイスラエルの民を救い、神の民としてご自身との交わりに生きるように導かれました。
しかしその後、神に対して不信心の罪を犯すイスラエルの民の姿が
旧約聖書の至る所に描かれています。
約束の地に入り、イスラエルの民は国をつくりますが、
王たちは偶像礼拝をします。
すると預言者が神に立ち帰るように警告します。
しかし王たちは悔い改めることなく、
最終的には、イスラエルの国は滅びます。
神はいつも忍耐強く、イスラエルの民が悔い改めて立ち帰り、
神の民として神との交わりに生きることを待っていたのです。
→旧約聖書を通読して思うことは、
何とイスラエルの民は恩知らずで不信仰な民であるか、
ということです。
神の民の不信心という罪。
しかし神はイスラエルの民を見捨てず、救い主を送ります。
☆
→次は十字架に現された神の怒りです。
神は救い主としてイエスを世に送りました。
イエスは奇跡を行い、人々を教え、
人々が神に立ち帰ることを願い、働かれました。
しかし宗教指導者たちは、イエスは神を冒瀆していると考え、
イエスを捕らえ裁判にかけ、イエスを死刑にします。
そしてイエスは十字架の上で死にます。
この十字架上の死もまた
罪に対する神の怒りを現しています。
人間が犯す罪に対する神の怒りを決定的に現しています。
人類のすべての罪に対する神の怒りが
イエスの上に注がれたと、聖書は伝えます。
そしてこのイエスは救い主であると聖書は伝えます。
どういうことでしょうか。
→旧約聖書は、
人間は罪を犯す者であることを明らかにしています。
神は<よきもの>として人間を造りました。
しかしその人間は罪を犯す者となってしまいました。
ノアの洪水の後、神は言いました。
「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と。
神は聖なる神、正しい神ですから、罪を放置することはできません。
人が犯した罪をないことにすることはできません。
罪を犯す人間に怒り、罰を下さざるを得ないのが聖なる神、正しい神です。
それだと人間は滅びるしかありません。
ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
独り子を信じない者が滅びる可能性が書かれています。
なぜ滅びるのかと言えば、罪を犯すからです。
→しかし神は同時に愛の神でもあります。
人を神との交わりに招かれる愛の神です。
しかし聖なる神としては、人が犯す罪を見逃すことはできません。
正しい神としては、人間の罪をあいまいにして、
人間を愛することはできません。
→どうしたら、人は神との交わりを回復できるのでしょうか。
それが問題です。
神は世の初めから、人間を救う道を用意しておられました。
→ここに神の子が登場します。
神の子が人となり、この世界に登場します。
彼は人の子として生まれ、イエスと名づけられました。
人々に神のことを伝えましたが、
最後に十字架の上で神を冒瀆したとして処刑されました。
十字架の上で死んだそのイエスを神は復活させました。
死んだイエスが復活したのです。
神はイエスを殺されたままにはしておきませんでした。
→神が用意された救いの道とはどのようなものだったのでしょうか。
神は、人間が犯す一切の罪に対する怒りを
このイエスの上に注いだのです。
イエスは神の子であり、地上の歩みにおいて罪を犯したことがありません。
罪に対する神の怒りを受ける理由を見出すことはできません。
しかし神はそのイエスに、人類の犯した一切の罪に対する神の怒り、裁きをぶつけたのです。
イエスは人類の犯す罪のすべてを背負い、神の怒りを受けました。
イエスは人類のすべての罪に対する贖いの死を遂げたのです。
神の怒りをなだめる贖いの死です。
イエスは、罪に対する贖いのためのいけにえとなられたのです。
→イエスは十字架の上で、
「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てるのですか」と叫び、
神の怒りを受けることがいかなるものかを経験しました。
神から見捨てられる、これが神の裁きです。
十字架の上でイエスは神に見捨てられました。
→イエスは人類の罪を贖うために十字架の上で死なれたことを
私たちは説教で聞き、また聖書で読みます。
このイエスの死が、自分のための死であることを信じるなら、
神はその人の罪をすべて赦し、
信じる人をご自身との交わりに招かれます。
神は罪を犯した者と和解し、交わりに招かれます。
ここに救いがあると聖書は伝えます。
→神は聖なる神、人類の犯す罪を十字架の上で裁きました。
罪に対する怒りをすべで十字架のイエスに注ぎました。
同時に神は愛の神。
神はイエスの死を贖いの死と信じる者の罪を赦し、
さらにイエスを信じる者を正しい者と見なし、和解し、
ご自身との交わりに招かれます。
イエスを信じる者は義とされます。
イエスを信じる者に神は義を与えられるのです。
イエスを信じる者を義とするという
福音がここに示されました。
福音を語るには、神の怒りを語ることが不可欠です。
☆
→神の怒りは、将来にも現されます。
教会は歴史の中で世界の果てまで福音を伝えてきました。
私たちは幸いに導かれイエス・キリストを信じる者になりました。
礼拝で告白する使徒信条にイエスは
「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とあります。
人は最後の審判において、自分がいかに生きたのか、神の前に申し開きをすると聖書は語ります。
コリント二 5:10
わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
最後の審判、これが最終的に罪に対する神の怒り、神の裁きです。
神は罪を犯した人をすぐに罰するとは限りません。
罪を犯した人たちが悔い改め、イエスを信じ、
神に立ち帰るのを待っておられる方です。
神は忍耐して待っておられますが、その忍耐は、
終末の到来までです。
最後の審判において、イエス・キリストを信じる人は、
神の国に迎えられることが最終的に決定します。
イエス・キリストを信じる人は神の義を与えられているからです。
徹底して罪を憎み、罪に対して怒る神は同時に
徹底して人間を愛し、ご自身との交わりに招く神です。
祈ります