イースタのあと、今年はルカ福音書の24章を思いめぐらしました。ここにはイエスの復活についての物語が書かれています。今年この箇所を読んで気づいたことがあります。それは「目」です。
13節以降で、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていました。そこにイエスが近づき「歩きながらやりとりしているその話は何のことですか」と問います。彼らは語りかけたのがイエスだと気づきません。二人の目が遮られていたからとあります。
彼らはイエスにエマオ村に泊まるようにと勧め、夕食を共にしました。イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人の弟子に渡しました。その瞬間、二人の弟子たちの目が開け、そこにいるのがイエスだと気づいたと書かれています。
二人の弟子は、急いでエルサレム戻り、他の弟子たちに主は本当に復活したと話しました。するとそこにイエスが現れると弟子たちは亡霊を見ていると思い、恐れおののきました。イエスは手と足をお見せになり、さらには焼いた魚を食べて、自分は亡霊ではなく、復活したご自身であることをお示しになりました。
そしてイエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。そしてイエスはメシアが死んで復活することは聖書に書いてあると説明されました。
心の目が開かれ、弟子たちはイエスが復活したことを信じ、また旧約聖書に書いてある通り、メシアが苦しみを受け、死者の中から復活したことを理解しました。心の目が開け、聖書が理解できたのです。
目が遮られているとイエスのことが分からないのです。目が開かれるとメシアのことが、聖書に書かれていることが分かるというのです。
人は自分で自分の目を開くことはできないようです。イエスが私たちの目を開ける方です。そして目が開かれるとイエスのことが分かるようになると書かれていました。目が遮られていないかどうか、目が開かれているかどうか、吟味することの必要を思わされます
多くの人は自分は見えていると考えますが、イエスは次のように言われたことがあります。
ヨハネ 9:39
イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
イエスはファリサイ派の人たちにこう言いました。
9:41
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
聖霊が私たちの目を開くとき、私たちはイエスのことが分かり、イエスを主と仰ぎ、主に従う者となることを思います。目を開いてくださいと祈りつつ聖書を読みたいとあらためて思いました。