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隠退牧師 holala によるブログ

イエス様の覚悟

受難週の聖書黙想です。

 今日の聖書には、人間の罪が描かれている。宗教指導者たちはイエスを死刑にするために中傷さえする。イエス様は皇帝に税を納めるのを禁じてはいないのに、禁じたと訴えている。宗教指導者たちが人を中傷し罪に陥れるのである。ひどいとしか言い様がない。彼らからすれば、イエスは神を冒とくした者、何が何でも死刑にしなければならないとの思いである。ある目的の実現のためにとる手段が間違っている時、その目的は正当化されない。

 ヘロデはイエスの行う奇跡を見ることができないとなると、イエス様をあざけり侮辱している。卑しい根性、卑劣なヘロデの有様である。愛は他者の人格を尊重する。ヘロデの行為は愛とは真反対の汚らわしい行為でさえある。

 そしてピラトは、イエス様に罪を見出せないのに、人々の声に負けてイエス様を引き渡した。罪のない者が死刑になるのを許可する、為政者としてしてはならないことである。ピラトは保身に走った。

 人々の罪がイエス様を死に追いやる。そしてその死は、人々を罪から救うためである。

 イエス様は中傷されても、あざけられても抗議の声を上げない。なすがままにされている。なぜか。復活したあとイエス様はエマオに向かう弟子たちに自分の身に起きたことが聖書に書いてあるとおりのことであると説明している。自分の身において旧約聖書に書かれている神による救いのわざが実現したと語っている。言い換えると神の救いの業に参与している。神の計画を担っている、神の計画に身をゆだねることをよしとしている。だから抗議もせず、抵抗もせず、されるがままになっている。

詩編22:8~9
わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

 

イザヤ53:6~8
わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。

 神の計画とのかかわりに生きるイエス様の姿は印象的である。そのためには自分の命さえ犠牲にするのである。十字架に向かうイエス様の心中、覚悟を見る思いがする。

 私たちが関わる神の計画、神の業というものがあるのだろうか。ある。それは聖書が語る終末である。終末はまだ来ていない。現代人にとって世界の終末が訪れ最後の審判が行われるなんて絵空事であろう。キリスト者といえどもどれほど真剣に受けとめているだろうか。最後の審判なんてあるかどうかわからない、死んで神のもとに行ければそれでいい、そう思っている信仰者も少なくないと思われる。

 終末に関わる事柄は、神の計画として聖書に書かれている。あるいは約束されている。それならこれを本気で受けとめる、それがあざけりと中傷を受けながら十字架の死を遂げたイエス様を信じるということではないか。イエス様は神の計画に殉じたのである。私たちも神の計画、ここでは終末の事柄を真剣に受けとめたい。