2023-08-01から1ヶ月間の記事一覧
実質的な信仰生活の出発点は、「自分は罪を犯したくない」との思いをもって生き始めるときだと私は考えます。
洗礼を受け、キリストに結ばれるとはキリストと共に死に、新しい命に生きることです。
牧師の働きを終え、老いの日々を送る中、信仰について思いめぐらす日々を過ごしています。気づかされたことがあります。
讃美歌405番 神ともにまして を歌って思い出した事柄。
今日思いめぐらした聖書箇所は、ロマ書の6章11節です。ここには興味深い表現があります。「~と考えなさい」という表現です。パウロは「信じなさい」とは言わないのです。
youtube で讃美歌を聞きながら一緒に賛美します。最近特に気に入って歌っているのが217番です。
ロマ書の6章1~11節をゆっくりディボーションしています。そしてこの箇所は何と凄い箇所なんだと驚いています。
昨日のブログで、最近憂鬱になっていることとその理由を書きました。今日阿、神さまから泣き言を言うなと言われたような思いです。
この数日、気分が落ち込みました。理由ははっきりしています。私たちが生きているこの社会、この世界が十戒を蹂躙している社会であることを思い、憂うつになりました。
鏡に映った自分との対話
キリスト者は古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着たいという思いを育てることが大切です。
私にはすべてのキリスト者が、自分は新しく生まれた者であるとの信仰に生きて欲しいという願いがあります。
洗礼を受けて信仰生活を送る中で、クリスチャンは新しく生まれ変わったことを教えられました。
ウクライナを覚えての祈りです。
キリスト者が御言葉によって生きるなら、世の人の歩みとの違いがはっきりすることになります。
キリスト者としてその名にふさわしく生きる、それが世の光なのだと教えられます。
私たちが生きている世界は闇で、私たちは闇の中に生きていると言ったら、多くの人から笑われると思います。世界が闇でなければ、救い主イエス・キリストは必要なことになります。どうなのでしょうか
今日は、5章14節「あなたがたは世の光である」を思いめぐらしました。
年を重ね、ああ、これをするのはこれが最後だと思うことがあります。そんな最後のこと。
塩は存在するだけで何かに働きかけるために行動するということがありません。キリスト者の存在が周囲に影響を与えていくわけです。
あらためて思います。学ぶことができるということはうれしい、と。聖書は内容が深く、自分の力では深みに到達できないことがあります。そんな時に学ぶことができるのは、本当にうれしいです。
新たな習慣を身につけながら生きる老いの日々。
自分が死の床にある時、思いめぐらしたい聖書箇所が色々あります。その一つはマタイ福音書25章31節以下です。